ゴーブの守る谷 17


 青年の全身から音を立てて血が下がっていく。

 ばかな。なぜこんなところに、フィオールの四肢が。

 確かにこのトーリー島は精霊王の領域で重要な土地ではある。だが、だからといってわざわざこのヘレテが単身乗り込んでくる理由はなんだ。

 地に片膝をついたダンは、無意識にクールを背後にかばっていた。

 彼とセイが駆けつけたとき、クールは文字通り満身創痍でぼろ布のように倒れていた。完全に気を失っているのに、それでも剣を掴んだままなのは、騎士としての誇りと意地だったのかもしれない。

 ヘレテは辺りをゆっくりと見回した。

 動けないセイ、倒れたままのクール、気を失ったレイミア、そして。

 女の柳眉が不機嫌そうに歪められた。

 先ほど死の淵に落としたはずの老女が、のろのろと身を起こしている。彼女の足元に、一羽の鳥が長いロッドを引きずって行くのが見えた。


「ディー、ラ……」


 精霊には重いロッドを運んできてくれたロセスに、ディーラは口元を赤く染めながら、青白い顔で微笑んだ。


「ありがとう、ロセス…」


 ロッドを取り、それを支えに老女は最後の力で立ち上がる。

 ディーラはダンに目配せをした。気づいたダンははっと我に返り、クールの一番ひどい腹部の傷に応急処置を施す。


「クール、クール、しっかりしてくれ…」


 ダンは祈る思いで繰り返した。


「クール、頼む、クール…!」


 このままでは、ディーラが。

 神殿祭司の自分には、闇の眷属と戦う力などない。そしてそれは、ドルイドも同じだ。

 ドルイドの力は守護のためのもの。剣を手に戦う騎士を、魔物たちから守るための盾なのだ。

 傷だらけのディーラは気丈にヘレテと対峙した。

 彼女はさりげなく孫娘を背後に守る形を取っていた。言葉を交わさなくても契約鳥にはそれが伝わる。ロセスはレイミアの傍らに下がって、長年ともに戦った契約者を見つめた。

 契約者が生を終えれば、精霊はティル・ナ・ノーグに戻る。戻って、二度と人間界を訪れることはない。精霊が契約を交わすのは、生涯ひとりだけ。

 だから、ロセスはディーラを見つめている。ただひとりの契約者。往年の、ローブをまとった姿と変わらぬその背を、彼女の一挙手一投足すべてを、脳裏に焼きつけておくために。


「……う…」


 レイミアはぼんやりと目を開けた。記憶が混濁している。頭にかかった靄が完全に晴れるまで、呼吸五つ分の時間を要した。


「……お…ばあ…ちゃ…」


 うまく動かない体を叱咤して、必死で首をもたげる。

 精霊の尾羽と、夕日の中に立つ背中を認めて、レイミアは息を詰めた。


「あ……!」


 体が動かない。腕にも腰にも力が入らない。呼吸すらうまくできない。

 そんな彼女の耳朶を、驚くほど力強い祖母の声が叩いた。


「……ヘレテ…、私は知っているよ」

「あら、なにを?」

「お前が、フィルガスを連れ去ったのだということを」


 レイミアは目を見開いた。それは、つい先ほど知ったばかりの残酷な事実だ。

 喉が凍てついたしまったかのように、言葉が出なくなる。

 逆光の中で、祖母は黒い影になっていた。

 妖魔の嘲笑が黄昏の中に木霊する。


「そう、知ってたの。なのにディーラ。あなた、そしらぬ顔でこの島で生きてきたの。身内も守れないドルイドが、ゴーブの谷の番人なんて、随分笑える冗談よねぇ」


 ディーラはロッドを握り締めた。


「……お前の言うとおりだよ」


 自分は、生まれたばかりのあの可愛い孫を、むざむざ闇の眷属に奪われた。

 大ドルイドなどと呼ばれながら、チェンジリングを阻止できなかった。

 あれから三十年以上が過ぎたが、彼女にとってそれは、己れを断罪しつづける過酷な時間だった。

 ずっと、ディーラは悔いていた。邪神を呪い、闇の眷属を呪い、そして守れなかった自分自身を呪いつづけてきたのだ。

 ディーラがロッドを掲げる。


「ヘレテ。フィオールの四肢と呼ばれるお前を、せめて道連れにしないと、私はあの子に詫びきれない」


 闇に染まってしまったのだと、知らされた。それだけではなく、孫息子エルクが命と引き換えに守った騎士ファリースを、その手にかけたのだと。

 どれほど絶望し、打ちのめされたことか。

 それでも、ディーラは報せてくれた旧友に感謝している。

 向こうの世界に渡ったとき、何も知らなかったらファリースに詫びることもできなかったのだから。


「ディーラ、なにを…!?」


 ヘレテの声音から余裕が消えた。

 レイミアは、ロセスは、セイは、頬に当たる風を感じた。

 ダンは、夕焼けで黄金に変わった光の中で掲げられたロッドの先端に、渦巻く陽炎を見た。

 誰もがおのが目を疑った。

 彼らは確かに見た。

 老女の背後に集った、四大精霊王の姿を。


「勇猛たる炎の精霊王ジン、清廉なる水の精霊王ニクサ……」


 激しい呼吸を繰り返すディーラの声音が震えを帯びている。最後まで詠唱できるか、これは賭けだ。そして、彼ら全員を同時に召喚するには、自分の力はもう足りない。

 だからあとは、命を引き換えに。

 闇の眷属を連れて行けば、村人たちと、ここにいる若者たち全員を救うことができる。そして、ようやく自分を赦すことができるのだ。


「鮮烈たる…風の、精霊王、パラルダ……」


 ヘレテはさすがに色を失った。いくら彼女でも、四大の王すべてを召喚されては無事でいられるはずがない。


「くっ!」


 鞭を収めて瘴気の渦を生み出し、ディーラに向けて放つ。

 ディーラは目を閉じた。


「……豪胆たる…地の精霊…お……」


 ゴーブ、と。

 最後の言葉は、音にならなかった。


「あんたの負けよ、ディーラ!」


 勝ち誇ったヘレテが高らかに宣言する。

 魔力の渦がディーラを飲み込み、大きく跳ね上げた。

 ダンが絶叫する。


「ディーラ…!」

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