ゴーブの守る谷 16

 まさか、半ば休養のために送られたトーリー島でこんな緊急事態が発生しているなど、ジェインたちは考えてもいないだろう。

 ジェイン、これは俺たちのせいじゃないからな。

 心の中で言い訳をする。でないと、禁をおかしたことを責められそうだ。

 よろめきながら、いま出せる最速のスピードで駆けていたクールの耳に、悲鳴のような声が突き刺さった。


「レイミア…?」


 爆発的な魔力を感じた。ドルイドと魔物の力がぶつかり合っている。

 クールは息を呑んだ。

 これほどに激しい戦闘は、まだ体験したことがない。フィルガスとセイの戦闘は、これより易しかった。

 クールは先を急いだ。

 レイミアの叫びが聞こえる。そうして、ねっとりと絡みつくような女の嘲笑。

 さっき撃退したと思った邪神の眷属。やはりあの女か。

 木立を抜けたクールは、黒衣の女と、ディーラを抱き起こしているレイミアを見た。


「ディーラ…!」


 ぴくりとも動かない老ドルイド。まるで死者のような顔色。

 どくんと、クールの心臓がはねた。

 遠い昔の雨の暁に、目の前で倒れた人の面影が脳裏をよぎった。

 がさりと木の葉が揺れた。女がクールをちらと見やる。


「オグマの騎士。……随分、元気そうじゃない?」


 顔面蒼白のクールを見て、ヘレテはうっそりと嗤う。

 クールは剣を構えた。レイミアとディーラを守らなければ。


「あら、やる気なの? 仕方ないわね」


 ヘレテは肩をすくめてクールに向き直ると、鞭を一閃させた。

 視界から鞭の先端が消える。速い。風を切る音が鼓膜に届く前に、クールの腹部を鞭の先端がえぐっていた。


「……っ…」


 かろうじて、うめき声を堪えた。だがクールはそのまま膝をつく。

 ヘレテはクールから漂う血の臭いを捉えていた。上衣の腹部にできた染みを、試しに的にしただけだ。


「もう終わり? 最近のオグマ騎士団は、この程度でも騎士になれるのね」


 剣を支えに、クールは体勢を立て直した。ともすれば遠のきそうになる意識を無理やり引き戻す。

 ヘレテは目をすがめて口元に指を当てると、楽しそうに呟いた。


「ひとりでも数を減らしたほうが、我が神がお喜びになるわね」


 谷と騎士とドルイド。一度に潰せるとは、今日はなんとすばらしい日だろう。

 もうじき太陽が沈み、暗黒の神フィオールのための時間が訪れる。

 クールは剣の柄を全力で握り締めた。祈る神は、オグマ。騎士団に冠された、戦いの神。


「だぁぁぁっ!」


 突進してくるクールに、ヘレテは無造作に手をかざした。

 魔力が満ちる。

 音が消えた。









 きんと耳鳴りがした。

 洞窟を疾走していたダンとセイは、思わず耳を押さえた。

 そんなふたりの狭間を、疾風のような影がすり抜けていく。

 同時に、激しい魔力の爆裂が起こった。

 洞窟全体が激しく震動し、風が荒れ狂う。

 バランスを崩したダンが壁に手をつき、岩を伝わっていく震えに息を呑む。


「これは……」

「さっきの、女妖魔…!」


 魔力の波動があの女のものだ。ふたりは血相を変えて走り出した。

 傾いて色を変えた陽射しが洞窟内に長い影を落とす。

 そこから飛び出したセイとダンは、言葉もなく立ち止まった。


「ディーラ、ディーラ、レイミア……!」


 倒れたレイミアとディーラの間に降りたロセスが、動かないふたりの名を引き攣った声で呼んでいる。

 闇の眷属は太陽を背にし、逆光で姿が判然としない。


「クール!」


 セイの耳にダンの叫びが聞こえた。焦燥の響き。離れていく気配。

 薄暗かった洞窟に慣れていた視界は、弱まったとはいえ充分に強い陽射しに焼かれる。

 指をかざしたセイは、細目をあけて状況を確認しようとした。

 ふいに、気配が目の前に迫った。

 手首を冷たい指が掴む。次の瞬間、女の吐息が顔にかかった。

 硬直したセイの瞳を覗き込み、ヘレテは驚いたように声を上げた。


「綺麗な色……。あなた、何を間違ってオグマ騎士団にいるの?」


 セイの胸の奥が瞬く間に凍てつく。鼓動がひときわ大きく跳ねた。


「帰ってらっしゃい。紫は、我が神フィオールの血を継ぐ証よ」


 全身の血が逆流した気がした。

 そうとも、紫の瞳は。邪神フィオールのそれなのだ――――。

 気がつけばセイは、言葉にならない怒号を上げながら女の腕を振り払っていた。

 ドルイドのロッドが掲げられる。

 だが、その先端にはめられた水晶が輝く寸前に、女の放った魔力がセイを襲っている。

 何が起こったのか、理解できなかった。ただ、背中に凄まじい衝撃が突き抜けて、呼気が唇からもれた。

 ずるずると岩壁を滑り落ちてそのまま糸の切れた操り人形のように倒れたとき、魔力で叩きつけられたのだとようやく理解した。

 激痛で声が出ない。あたたかいものがこめかみに広がって、右目の視界が突然真っ赤に染まった。額が切れたらしい。

 声すら発することもできず、セイはかすかにあえいだ。衝撃で全身がしびれてままならない。


「セイ!」


 クールの許に駆け寄っていたダンは、女の持つ凄まじいまでの魔力に戦慄していた。

 ディーラとクール、セイを、いとも簡単に追い詰めた闇の眷族。

 人間とほぼ同じ姿を持つものは、邪神の配下の中でもトップクラスに位置している。

 ダンの脳裏に、幾つかの名前が浮かんだ。

 邪神の配下。闇の眷属の中でも、「眠れるフィオールの四肢」と呼ばれる者たちがいる。

 十ニ年前、豪剣のファリースと蒼楯のエルクが討ち果たした魔物、バルサーザ。

 闇をまとっているため誰も姿を見たことのないザリンデ。

 老獪な片目のケルギー。

 そして。

 しなやかな鞭を自在にふるい人間を両断することに喜びを見出す、ヘレテ。

 ダンの表情からなにやら察したらしいヘレテは、艶然と笑った。

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