ゴーブの守る谷 8
トーリー島までは半日かかった。朝早くに出発して、到着したのは陽が傾きかけた頃だ。
途中で交代すると言っていたものの、ロセスは疲れた様子もなく飛びつづけた。
アードは落ち込んでいた。自分では絶対にこんなに長時間飛びつづけることはできない。
悶々としているアードの背を、セイは無言で何度か叩く。
アードとセイが契約をしたのは、彼が騎士団に入団したときだ。さほど日が経っているわけではない。それに、アードはまだ成鳥とは言えないのである。
クールもセイもアードも、これから一人前になっていくのだ。
三人を降ろして姿を変えたロセスがダンの肩にとまる。
「ロセス、ディーラの家は?」
彼らは全員この島を訪れるのが初めてだ。ダンは一応地図を頭に叩き込んできたが、正確な場所までは知らない。
ロセスはくちばしをめぐらせた。
「あちらです。村から少し外れた、谷につづく道の途中」
三人はロセスの案内に従って歩き出す。
トーリー島にひとつだけの村は、とても小さな集落だった。村の中央に広場があり、小さな神殿がその前に建っている。家は広場を取り囲むように配されていて、少し歩くとすぐに民家が途切れる。
クールとセイが育った村も大きくはなかったが、この村はもっとずっと小さい。
村に入ってから少しして、ダンが怪訝そうに呟いた。
「……妙だな」
「ダン?」
クールとセイが振り返る。ダンはきょろきょろと視線を走らせている。
「どうして誰もいないんだ?」
ダンの言うとおり、住民がまったく見当たらない。
ひとのいた気配はあるのだ。にもかかわらず、誰の姿も見えない。
手近な家の扉をクールが叩く。
「こんにちはー」
少し待ってみたが返事はない。
ダンやセイが別の家の扉を叩いても同様だった。
「みんな用事があって、出払ってるのかな?」
セイの肩にとまったアードが首を傾ける。ダンがロセスに視線を向けるが、ロセスも当惑した様子で首を振るのみだ。
「……とりあえず、ディーラの家に行ってみよう」
ダンの言葉に、一同は頷いた。
自然に足取りが速くなる。何かが起こっている。だが、一体何が。
村を抜けてしばらく歩くと、小さな家が見えた。
「あそこです」
ロセスが片翼でさす。家の隣に井戸があり、反対側には家畜小屋らしいものが建っている。
ふと、クールの背筋に言い表せないものが駆け下りた。
唐突に立ち止まったクールを、ダンとセイが振り返る。
「クール?」
クールは剣の柄に手を当てて視線を走らせた。
「なにか…」
直感だ。
同時に、セイが息を詰める。
岩山につづく道の彼方、生い茂った森の中から、凄まじい魔力がほとばしった。
「これは…!?」
ダンが目を剥く。クールとセイが弾かれたように駆け出した。
岩山のふもとに広がる森の奥。
鬱蒼と茂った木々を、しなる鞭が次々に叩き折る。
「逃げ足の速い」
呆れた風情で肩をすくめ、ヘレテは鞭をふるう。
鞭の先端が叩いた幹が、そこに込められていた魔力によって真っ二つに割れる。
音を立てて倒れる木から逃れるように、小柄な人影が転がり出た。
「見ぃつけた」
極上の笑みを浮かべて、ヘレテはその影を追う。
一方、追われる側は懸命に走っていた。もうどれくらい逃げ惑っているのか覚えていない。
捕らわれそうになるたび、なぜか逃げるいとまが与えられた。逃げ惑う獲物を追い詰めて楽しんでいるのだ。それがわかる。悔しい。
だが、立ち止まったら確実に捕らえられる。それだけは避けなければ。
「あら、どこに行ったのかしら?」
ヘレテは悠然と辺りを見回した。
激しい呼吸が風に乗って伝わってくる。それを探れば居所は容易に知れた。
そろそろ飽きてきた。元気のなくなった獲物が動けなくなる前に、しとめてしまおう。
「うさぎは跳ね回れるうちに狩らなきゃね」
あらがう力がなくなってからではつまらない。
鞭をしならせて、ヘレテは視線を滑らせた。倒木と岩の狭間に、スカートの裾が覗いている。
ヘレテの腕が一閃し、鞭の先端が岩を打ち砕いた。隠れていた獲物が悲鳴を上げて転がる。
「とどめよ」
嬉々として鞭を構えたヘレテは、ふいに殺気を感じて身を翻した。
陽光を受けた剣身が視界に掠める。
身をよじって跳躍すると同時に、彼女の影を鋭利な切っ先が薙ぎ払った。
「闇の眷属…っ!」
剣を構え直しながら唸るクールを睨み、ヘレテは忌々しげに吐き捨てた。
「オグマの騎士…っ、なぜここに…!」
ヘレテの鞭がしなり、クールを襲う。クールは鞭の先端を剣で払いのけた。が、しなやかな鞭はそのまま剣に巻きつく。
「っ! くそ…っ!」
剣を奪われそうになって、クールは全力で抵抗する。
そこに、遅れたセイが到着した。
「闇の眷属!」
ヘレテはちっと舌打ちをした。新たに現れた少年の手にはロッドが握られている。ドルイドだ。
セイがロッドを構えた。
「森駆ける風の長よ!」
風が渦巻き、魔力の網がヘレテを囲む。
彼女は不機嫌そうに眉を寄せると、クールの剣を解放し、魔力を爆発させた。
「うわっ…!」
クールとセイは腕を掲げて目をかばう。その隙にヘレテは姿をくらませた。
「くそっ、逃げられた…!」
悔しさを隠しもせずに地団太を踏むクールの背後で、人影がのろのろと身を起こす。
気づいたセイは、人影を認めて愕然と凍りついた。
「………!」
セイの異変に、クールは思わず背後を振り返る。
「っ…⁈」
息が詰まった。心臓が大きく跳ね上がる。
大きなヘイゼルの瞳が、クールをまっすぐに見返してくる。
クールは呆然と呟いた。
「……フィル…ガス…!?」
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