一章 一対の剣と盾
一対の剣と盾 1
魂に刻む意志を、
◆ ◆ ◆
雨だった。
命の火が消えかかった英雄の、ファリースの手を掴んで、ただただ泣いた。
体から離れようとしている命をつなぎとめたいのに、できない。
泣くことしかできなかった自分。
無力さで、悔しさで、悲しさで、胸が潰れそうな―――。
――……ル…
そうだ、あのときファリースは、名前を呼んでくれた。気息まじりの声は雨音に消されかけて、聞き逃さないように懸命に耳を澄ませて。
初めて会ったときに名を呼ばれて以来、エリンの英雄が呼んでくれるその声が、本当に本当に大好きだった。
――…クール…
だから、誓った。魂に刻む意志。消えゆく命にも届くように。
雨が頬を打つ。風が頬を叩く。―――風?
違和感を覚えた瞬間、鋭い叫びと異様な鳴号が鼓膜をつんざいた。
「クールっ!」
クールははっと目を開けた。
視界いっぱいに空があった。渦巻く雲の中心に白い塊がいる。
目が、合った。瞬く間に膨れ上がる白い塊は、蝙蝠のような皮膜の翼を持つ獰猛な竜、ワイバーン。
翼を数度叩いて急上昇するワイバーンの目がぎらりと光った気がした。
逆さまになった視界の上半分は森と丘と岩と山。彼らの住む国エリンの山並みがどこまでも広がっている。
自分がいまどこで何をしていたのか、クールは思い出した。
いまこの瞬間、自分は真っ逆さまに落ちている。
「わあぁぁぁぁっ!」
「クール!」
血相を変えるクールの視界に、巨大な鷹の背に乗った相棒の姿がちらりと掠めた。
「アード、急げ!」
アードと呼ばれた巨鳥は青い翼をはばたかせる。
「全速力だよ!」
しかし、クールの落下速度に追いつけない。
クールはただ落ちているのではない。ワイバーンの翼に激しい殴打を浴びせられたため、落下速度が増しているのだ。
衝撃で気を失っていたのはほんの一瞬だったはずだが、そのわずかな時間に昔の記憶が夢のように駆け抜けた。
「クール!」
ローブをまとい
あのときクールの隣でファリースの手を一緒に掴んでいた子供。彼は誓いのとおり
ドルイドは、鳥の姿を取る風の精霊と契約を交わす。契約鳥と呼ばれる鳥たちは、ドルイドと騎士をその背に乗せて飛ぶ強靭な翼の持ち主だ。
しかし、ワイバーンの翼はアードのそれを凌駕した。
このまま落下すればクールの命はない。騎士といえども鍛えているだけのただの人間だ。
豪速で降下してくるアードと血相を変えているセイを見たクールは、彼らの背後に皮膜の翼を広げて牙を剥くワイバーンを認めた。
「セイ、後ろだ!」
視線を走らせたセイは、敵意に満ち満ちたワイバーンの眼光に、ちっと舌打ちをする。
あっという間にアードを追い越したワイバーンがくわっとあぎとを開く。皮膜の翼の先にそなわった鋭い爪が喉笛と胸に狙いをさだめたのを、クールは確かに感じた。
セイとアードが異口同音に叫ぶ。
「クール!」
風の唸りとともにワイバーンが迫ってくる。
クールは右手に力を込めた。なじんだ柄の感触が落ち着きを取り戻してくれる。よく落とさなかった。それだけは自分をほめたい。
「こんなところで、終わってたまるか!」
身をよじって剣を振りかぶり、ワイバーンの翼をはじく。皮膜ではなく骨に当たったらしく、がきんと鈍い音が響いた。予想していたより遥かに硬い。魔物は頑丈だ。
バランスを崩したワイバーンが翼を打ちながら旋回する。
「くっ…」
クールは歯噛みした。不安定な中空では、切り伏せるどころかかわすので精いっぱいだ。
しかし、クールの決死の一撃を受けたワイバーンは少しばかり警戒心を抱いたらしい。空に舞い上がると、渦巻く雲の中に飛び込んで姿をくらませる。
一方のクールはワイバーンとぶつかったことで落下速度がやや鈍った。その間にアードがようやくクールに追いつき、足でクールのふくらはぎをしっかり掴む。
「クール、無事か!?」
クールは頷きながら剣先で空を示した。
「アード、あいつを追えっ! 逃がすなっ!」
その闘志に燃える眼差しに、アードは翼を強くはばたかせた。
「セイ、しっかりつかまって!」
契約鳥に応じる代わりに、セイはアードの首の羽を掴んで体を低くする。
クールを掴んだままアードが急上昇すると、ワイバーンの後を追って雲の中に突入した。。
雲は水蒸気のかたまりだ。クールもセイもアードもあっという間にびしょ濡れになる。
水を含んで重くなったのか、アードの翼の動きが若干鈍くなる。
セイはロッドを掲げて口の中で小さく呪文を唱えた。すると、彼らにまつわりついていた水滴がぱっと霧散した。
軽くなった翼をはばたかせてアードは速度を上げていく。
クールは視線をめぐらせた。視界には雲ばかりが広がっている。
「セイ、やつはどこだ!」
セイは一度辺りを見回してから瞼を落とし、ロッドを握り締めて気配を探った。
ドルイドの魔力が発動し、ロッドの上部にはめ込まれた石がほのかに輝く。
魔力が上下四方に広がってワイバーンの気配を追う。
ロッドに触れたセイの手にぴりっとした感覚が生じた。
右方向だ。
「右!」
同時に、雲の中からワイバーンが躍り出た。
クールは目を剥いた。雲を突き破るように出てきたそこは、クール真正面だ。
「っの…!」
今度こそ。
剣を振りかぶったクールは反動で体を起こし、アードの足を蹴って飛んだ。
「だぁっ!」
ワイバーンの胸めがけて渾身の一撃を振り下ろす。が、軽い。
魔物の胸元を切っ先が掠めた程度だ。あれでは致命傷にもならない。
「くそ…っ」
顔を歪めて歯噛みするクールの耳に、身をよじるワイバーンの苦痛の鳴き声が突き刺さる。
ワイバーンは大袈裟に吠えながら雲の中に入り、そのまま飛び去った。
アードの支えを失ったクールはそのまま落ちていく。
「わあぁぁぁぁっ!」
セイとアードは目を剥いた。
「クール!」
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