暁の誓約《ゲッシュ》
結城光流
序章 暁の誓約
ずっと降りつづいていた雨がほんのわずかにやわらいだとき。
逞しい体躯を細く鋭利なものが貫いた。
かすかに震えながら縋り合うように身を寄せていたふたりの子供は、引き攣れた声を上げた。
「ファリース…っ…!」
ふたりは見ていた。
憧れの英雄ファリースを串刺しにした魔物の長い爪が、その肢体から無造作に引き抜かれる様を。
あふれる涙をそのままに、ただ、見ていることしかできなかった。
「ファリース…!」
「ファリース! ちくしょう! はなせよぉ!」
ファリースの胸から真っ赤なものが流れて、雨がそれをどんどん広げていく。
子供たちの足に絡みついた蔦は魔力の籠められた枷だ。子供の力でどんなにもがいてもびくともしない。
「ファリース! わあぁぁぁぁっ!」
泣きながら叫ぶ子供たちに、その傍らにたたずむ黒いローブの男がくすくす笑いながらささやいた。
「ああ、あれはもうだめだねぇ。エリンの英雄豪剣のファリースも、あの傷じゃあもう…」
ふいに男は押し黙った。ローブに覆われ隠されている目を見開いた気配がする。
相当の深手を負ったにもかかわらず、ファリースは両手で掴んだ剣を横なぎに払い、魔物の爪と胴を両断した。
動くごとに、ファリースの胸の傷から真っ赤なものがしたたり落ちて雨と交じり合う。
失血でよろめきかけたファリースは、しかし気力で体勢を立て直した。
凄まじい気迫をたたえた目が、子供たちとその横にいるローブの男を捉える。
柄を握り直すと同時に地を蹴って突進し、ファリースは豪剣を振り上げる。
切っ先が黒いローブを切り裂いた。半瞬前まで男の首があったはずの場所だ。
薄闇の中であらわになった男の相貌を、子供たちはそのとき脳裏に刻み込んだ。
後ろに飛んで着地した男の正面に立ちはだかり、背後にふたりをかばって剣を構え直すファリースの喉が、ふいに嫌な音を立てた。
「……っ」
口から血泡がこぼれ出る。子供たちの声にならない悲鳴を雨音が呑み込む。
しかし、ファリースは男を凝視したままだ。握った剣の切っ先を眼前の敵に据え、攻撃の隙を探して呼吸をはかっている。
男が忌々し気に顔を歪めた。瀕死のファリースの気迫に圧されたのか、ローブの男は小さく舌打ちをすると、そのまま闇に沈むように消えた。
子供たちの足を捉えていた蔦がしゅるしゅるとほどけて地に吸い込まれる。ローブの男が消えて魔術が解けたのだ。
魔力が完全に消えたのを確かめて、ファリースは地に剣を突き立てて己れを支えようと試みた。
しかし、おびただしい失血で膝の力が抜け、そのまま数歩後ろによろめき仰向けに倒れた。
飛沫が上がる。振りやまない雨は、胸の傷から流れつづける血潮を洗い流すこともせず、いたずらに広げるだけだ。
「ファリース…!」
呼ぶ声を聞き、倒れた男はのろのろと瞼をあげた。
傍らにふたりの子供がいた。ふたりとも、くしゃくしゃのひどい顔をしていた。
怯えて青ざめた子供たちを安心させようと、ファリースは笑おうとした。
だが、ふたりの子供の顔を見て、失敗したのを悟る。
銀髪の子供が繰り返し叫ぶ。
「ファリース、ファリース!」
「……セ…イ…」
その隣で、黒髪の子供が大粒の涙をこぼしながら泣きじゃくっている。
「……ク……ル……」
ふたりは目をしばたたかせて、雨にかき消されそうなほどかすかなファリースの声を聞き漏らすまいと、耳を寄せてくる。
ファリースは瞼を震わせた。
「…………」
唇が紡ぐ言葉は音になる前に消えていく。しかし、子供たちは何度も何度も頷いた。
いい子たちだ。一緒に暮らした時間は短かったけれども、ふたりがどんなにいい子であったか、もっときちんと伝えておくのだった。
いつでも言えると思って。いつまでも言えると思って。伝えることができなくなる日が来ることを、考えもしなかった。
最後の力で持ち上げようとした右腕を、ふたりが同時に掴んだ。
口を開いたのはどちらが先だったか。
黒髪のクールが力を込めた涙声で告げる。
「騎士に、なって」
銀髪のセイが抑えた震える声で紡ぐ。
「ドルイドに、なって」
ふたりが同時に息を吸い込む。
「必ず邪神を倒して、
ファリースは、仄かに笑った。
そうか、と。
ファリースの唇がかすかに動いたのを、子供たちは確かに見た。
これは、
あまたある誓いの中で、もっとも深く、もっとも強い、魂に刻む意志。
この世でファリースが、最後に聞く言葉。
英雄と、ふたりの子供たちだけが知っている。ただひとつの誓約。
暁の頃に、最果ての国エリンは英雄を失った。
豪剣のファリース。
「フィオールの末裔」と呼ばれる魔物たちからエリンに生きる者たちを守るという彼の意志は、その死を見取ったふたりの少年に受け継がれた。
ファリース、クール、そしてセイ。
彼ら三人以外、ひとりとして聴く者のいなかった、暁の誓約。
すべての物語は、ここから始まる。
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