二日目・?
──深い森の中を、当てもなく逃げ回る。
時折背後を振り返るものの、辺りが暗すぎて何も見えない。
けれど、ずっと。
そう、こうして逃げ始めてからずっと。
──首元の辺りにずっと、言い様の無い不快感がこびりついている。
噛まれたり、怪我をしたわけではない。
ただずっと、「そこを狙われている」とでも言うような、おぞましい不快感がずっと纏わりついている。
それが恐ろしくて、深い森の中をずっと逃げ回っている。
……何時から逃げていたのだったか?
森の中に大型の獣の姿を見かけ、喜び勇んで狩りに入ってからの筈だから、それこそ日が落ちる少し前からだったか。
弓と矢筒に矢を数本用意して、森の中に意気揚々と入っていって。
ある程度奥まで進んだ先に大きなイノシシの姿を見付け、息を潜めながら近付いて、その眉間に矢を打ち込んで、一発じゃ足りなかったから更に数本打ち込んで、そうしてやっとイノシシは動かなくなって。
思わず喝采をあげてイノシシの死体に近付いて──、
いつの間にか、連れていた筈の相棒である犬のケリーが居なくなっていたことに気が付いた。
イノシシの眉間に一発目の矢を打ち込んだ時には鳴き声が聞こえていたはずだった。だから、その時はまだ近くにいたはずだ。
いつの間にかはぐれてしまったのか、そう思って指笛を吹いて呼んでみたが、しばし待ってみてもケリーの姿は見えない、どころか吠える声さえ聞こえやしない。
流石に少し心配になって、辺りを声を出しながら探し回る。
その時はまだ日が沈み切ってなかったから、薄暗い森の中で足を滑らせてしまったのかと思いながら森の外れまで探してみたが、そこまで行っても何も見付からない。
仕方なく仕留めたイノシシの死体の元へ戻って──、
死体が、消えていた。
その時点で引き返して居れば良かったのだろうが、最初に見かけた獣の影がさっき仕留めたイノシシよりも大きかったように思えて、そこからどうやら森に熊でも出たのではないかと思い直し。
最初に用意した矢の数がそれなりに多かったこと。
居なくなったケリーが熊に襲われてしまったのではないかと思ったこと。
それと、仕留めた獲物を失ってしまったことが合わさって、彼は少し苛立っていた。
苛立っていたから、熊も一緒に仕留めてやると意気込んでしまった。……意気込んでしまったのだ。
流石に熊相手だと言うのならもう少し警戒するのが常なのだが、どうにもその時は気が立っていたからあまり冷静に動けていなかった。
それでも、ある程度は気を付けつつ、音を極力立てないように森の奥へと進んでいった。
──ある程度進んで、何か妙な匂いが鼻を掠めた。
酸っぱい、とでも言えばいいのか。森の中では余り嗅がないような、そんな匂いだ。
それが、突然に周囲から香ってきたのだ。といっても、それは本当に微かな匂いで、たまたま鼻に付いたという方が正しい程度のものだったが。
ゆえに、少し訝しく思いながらも森の奥へと進んでいく。
……進む度、匂いが強くなっていく。
最初は酸っぱい、と思っていた匂いだったが、次第に嗅いでいると気持ちの悪くなる匂いだと気付く。生理的にというか、とにかく気分の悪くなる匂いだった。
普段なら、こんな匂いがする場所には近付かないだろう。
その時は苛立ちを増すだけでしかなかったが、今となっては引き返す口実としては上々だったと思える。結局は苛立ちが勝って先へと進んだわけだが。
そうして匂いと格闘しながら、ある程度開けた場所にたどり着いた。
この頃にはもう辺りはうっすらとしか視認できず、たどり着いた場所がどこなのかもすぐには判別できなかった。
しばし目を細めて待つことで、ようやく目が暗さになれて周囲の様子が朧気ながら明らかになっていく。
そこは、神父が管理している町民達の墓地だった。
町の人はほとんど近寄らず、教会の関係者が時折整備に訪れるだけの、閑散とした場所。
町の人間がここに来ることなんて、町の誰かの葬儀があった時くらいのものだ。
だから、彼は一瞬意味が分からなかった。
あるのは地面に刺さった十字架くらいしかない筈のこの場所で、
さっきのイノシシと、
相棒のケリーが、
真っ赤に染まって、
ぐちゃぐちゃになって、
異臭を放ちながらそこにあって、
何故か蛆が沸いたその肉塊の、
それの前に黒い何かが居て、
その顔らしき部分がこっちを向き───、
瞬間、彼は逃げ出した。
意味が分からなくて、恐ろしくて、とにかく逃げ出した。弓も矢筒も全て投げ出し、とにかく遮二無二に走る。
息があがって苦しいが、それよりもなによりも後ろが恐ろしくて仕方がなくて、とにかくあそこから離れるためにひたすらに走り抜けていく。
そうして走り続けて、ふと気が付くと。
彼は、森の奥で自身の位置すら分からなくなってしまうほど遠くへと走り抜けてしまっていた。
切れた息を整えながら、恐る恐る後ろを向く。……少なくとも、何かが追いかけて来たりはしないようだった。
そのことに安堵し、ほっと一息をつく。
一息ついて、これからどうしようと頭を抱える。
見間違いでなければ、あそこにいたのは化け物らしき何者か。それが、自身の獲物と相棒を手にかけた、ということになるのだろう。
果たして、それを町のみんなに言って信じて貰えるだろうか?
変に焦って獲物を取り逃がしてしまった、そんな憐れな男の妄言だと流されてしまわないだろうか?
犠牲になった相棒だって、愛想を尽かされて逃げられたのだと一笑に伏されてしまうかもしれない。
少なくとも、わけの分からない化け物に出会ったというよりは信憑性があるように思われる。
そうしてうんうんと悩むことしばし。……ここであれこれと考えても埒が空かないと判断した彼は、とりあえず町に戻ろうと決心して歩を進めようとする。
そうして右足を浮かせて──、
そのまま踏み出せずに、地面に転んでしまう。
自身の意思とは違う結果になって、意味が分からなくて混乱する男。
そうして何があったのかと足下へと視線を移して、
──自身の右足の膝から下が、無くなっていることに気が付いた。
声にならない叫びを上げ、狂乱する。
痛みはない、違和感もない。
ただ、自身の右足だけが不自然に欠損している。
わけが分からない、意味が分からない、そんな表情で右足を見つめる彼は、そこで自身の鼻を掠める匂いに気付く。
……酸っぱい、腐乱臭。
今はまだ微かなそれは、先ほどあの場所から匂っていたそれと同じで、
「──■■■■」
突然、聞き取れない言葉が周囲に響く。
男の声なのか、女の声なのか、どちらなのかの判別ができない掠れるような声。
しかし、これは声が小さいから聞き取れないのではなく、言葉そのものの意味が聞き取れていないような──、
「──■■■■」
男の思考を遮るように、また声が聞こえてくる。
それは先ほどよりもはっきりと、それでもなおまだ掠れたままのもので、男はそれを発するモノが近付いて来ているのだと確信する。
──消えていた首への不快感が復活する。
それも、より強い不快感と共にそれは熱さえも帯びていく。
……痒い。
熱を持った場所が刺すような痛みと、抑えきれない痒みを持ってこちらに異常を伝えてくる。
そこまで異常を自覚しても男は逃げることさえできない。
膝先の無い右足は、よく見れば腐ってしまっていたからだ。
わけの分からない状況に、男は怯え震えることしかできない。
そうして震えながら、男は最近教わったある仕草を思い出す。
曰く、己の力ではどうしようもない状況に出くわした時、人の力ではどうしようもないものに出会った時、最後の最後に行うこと。
人の手に届かぬ奇跡で、人を救うもの。
町の神父が、熱心に教え伝えた一つの儀礼。
男は怯え震えながら、無事に動く右手を握り、額に触れたのちその手を胸まで下ろし、次に左肩に触れてから右肩にまで手を引いた。
するとどうしたことか。
首の違和感は消え去り、恐怖に震えていた心は穏やかに薙ぎ、周囲から聞こえていたおぞましい声も、いつの間にか無くなってしまっているではないか。
男は呆気にとられて、しばしそうして放心したあと、思わず笑いだした。
そして、先の祈りを教えてくれた神父に深い感謝を捧げた。
「おお、神父よ。貴方の導きに感謝します」
──男の腐乱死体が見付かるのは、それから一日経った後のことであった。
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