第3話 ノクターンへ続く

 時は金なり、と人はよく言う。時間は金のように貴重なものであるから、有意義に使うべきだという意味だ。語源はアメリカ合衆国の『Time is money』にある。


 どこまでこのことわざを鵜呑みにしている人がいるのか定かではないが、忙しなく動く人は、わが国日本に溢れている。


 常に時計を気にしながらいそいそと電車に乗り込み、席に着いたかと思えば、ノートパソコンを取り出し表にデータを打ち込んでいく。彼ら彼女らは時間を大切にしているのではなく、専ら時間に追われているといった表現の方が正しいだろう。


 のんびりと休日を過ごしている一ノ瀬の隣にもまた、そうした社会の歯車を担う一人の女性がいた。


 彼女は休日だというのに紺のスーツに身を包み、顔の前に垂れる髪の毛を時折鬱陶しそうに払いながら作業を続けている。邪魔なら結えばいいのにと一ノ瀬は思ったが、人の、ましてや女性のファッションに口を出すほど一ノ瀬はおしゃれというものに明るくはない。ここにもし夜帳がいたのなら、あの得意げな顔で聞き慣れない単語を次々と繰り出してくることだろう。心の中で苦笑しながら一ノ瀬は窓の外で流れていく街並みに目を移した。


 流れゆく景色は都市部を抜け、やがて田園地帯に入る。この安蘇あそ地方は都心に近いところでは珍しく緑が豊富だ。航空写真では灰色の建物の中に突然緑色の穴が開いたように見える。農家が多く住むこの土地ならではの文化が形成されており、都会の疲れを癒すために訪れる者も多い。忙しない都会とは一線を画すような、のんびりとした時間がこの土地には流れている。


 しばらくの間一ノ瀬は、列車の駆動音と隣で響くタイピング音に耳を傾けていた。丁度良い温度の暖房と心地よい列車の揺れも相まって、だんだんと瞼が重くなっていく。


 休日の昼間にしては乗客の話し声も聞こえず穏やかな空気の中、うとうとと微睡んでいた一ノ瀬は、突然の大声に体を竦ませた。


「あー!終わり終わり!やってられないっての!」


 目をこすりながら隣を見れば、作業をしていた女性がパソコンを荒々しく畳み、鞄に突っ込んでいる所だった。


「もう、どうでもいいわ。あーあ、このまま会社辞めちゃおうかな……」


 天井を仰ぎ手を力なく垂らす女性。深く吐き出される息からは疲労が色濃く見えていた。


「お疲れの様ですね」


 見かねた一ノ瀬はそう声をかけたのだが、彼女からの返答は無かった。魂が抜けたように天井を見上げ、口を半開きにしている。

 一呼吸置いてから女性に向かってもう一度、さっきより大きな声で呼びかけた。


「お疲れの様ですね!」

「うわぁ!なに、私?」

「大丈夫ですか」

「全く大丈夫ではないけど、とりあえず人としての体裁は保ててる」

「それは何より」


 一ノ瀬はショルダーバックを漁ると、中からボトル入りのコーヒーと紅茶を取り出した。


「あなたは紅茶派ですか?それともコーヒー?」


 女性はいきなりの質問に目を瞬かせていたが、一ノ瀬の意図を察すると少しだけ口元を緩めた。


「紅茶をもらおうかな。最近はカフェインの取りすぎで耐性がついちゃったから、もうしばらくは見たくもない」


 そう言って一ノ瀬から紅茶を受け取り、ゆっくりと咀嚼するように飲み始める。


「あー、まともな飲み物は何日ぶりだろ。紅茶ってこんなに美味しかったのか……」


 まるで遭難から生還してきた人間のような感想をスルーしつつ、一ノ瀬もコーヒーに口をつけた。二人の間に沈黙が流れ、液体が喉を通過する音だけが響く。 

                                                                                                                                                                                            

 先にその沈黙を破ったのは意外にも女性の方からだった。


「君、名前は?」

「一ノ瀬陽太。しがない大学生ですよ」

「いいなあ、大学生。夢と希望に溢れてる歳だ」


 空になったペットボトルを指で揺らして遊ばせながら、彼女はくっくっと喉の奥で笑う。そのまま作り笑いを浮かべながら一ノ瀬を見下ろした。


「あたしは跡部真理あとべまり。幾らでも替えの利く会社員といったところかな」


 皮肉気に顔を歪ませる跡部の目元には濃いクマが染みついている。まだ人生の全盛期だろうに卑屈なことを言うものだ。一ノ瀬は頬を掻いた。


「何か嫌なことでもありました?」

「そういうわけじゃないよ、どうでもよくなっちゃっただけ」

「よっぽどのことがなければ全てを投げ出そうとなんて思いませんよ」


 見ただけで分かるほど、自身が置かれている状況に跡部は疲弊しきっているようだ。


 何のために精魂尽きるまで仕事に縛られているのだろうか。何らかの理由があるのかと質そうとする前に、跡部が自発的に話し出す。


「二年前に入社してからずっとこんな調子。前の方がましだったかな?まともに家にも帰れず残業に次ぐ残業、ようやく落ち着いたと思ったら、新卒があまり採れなかったからって仕事を全部あたしに回してきやがった。まあ、今まで溜め込んできたものが爆発したって感じだよ」


 虚ろな目で中空を見つめながら話す跡部。初対面の人間に話すにしてはなかなかの話だが、追い詰められ誰とも話すことのできない日々の中で、いい加減誰かに気持ちをぶつけて発散したかったのかもしれない。


 列車でしか接点のない偶然出会った一ノ瀬は、後腐れなく話せる人間として適任だと判断されたのだろう。


 跡部は両手を頭の後ろで組んだ。


「働くってこういうことなんだーって自分を無理やり納得させてたけど、もうそろそろ限界かな。それで、やんなっちゃった」

「それだけではないでしょう」

「んえ?」


 一ノ瀬はペットボトルのコーヒーをドリンクホルダーに入れると、指を跡部の顔の前で振って見せた。


「恐らく、もっと根幹の部分に打撃を負ったのではないですか。二年間もそうした重圧に耐えきることが出来たのもその支えのおかげ、それが無くなったから今見るに堪えない姿になっている」


 人は脆い生き物だ。だからこそ支えあって生きている。支えあうことで人は何事にも耐えうる忍耐を手に入れることが出来るのだ。だがその支えを失ったら?まさに崩れるジェンガのごとく、あっという間にバラバラになっていく。跡部がその部分をはぐらかしていることは、一ノ瀬の目にも明らかだった。


 気分を悪くさせるかもしれないと思っていたが、跡部はバツが悪そうに一ノ瀬を見た。まるで隠していた悪戯がばれてしまったような。


「うーん、君みたいなお子様に看破されちゃうとは。そんなに分かりやすかった?」

「大学生と言いましたが」

「あたしより年下なんだから、お子様でしょ」


 実際一ノ瀬の方が年下のために、あながち間違ってはいないのだが。跡部は足を組みなおしてから口を開いた。


「つい先月なんだけどね、大学の頃から付き合ってた彼氏と連絡が取れなくなっちゃって。多分、向こうの不倫だと思う」


 恋愛に疎い一ノ瀬には荷が重い話題が飛び出してきた。予想はついていたが、改めて生々しい話を聞くと少しだけ顔をしかめてしまう。


「原因は今の仕事と関係があるんですか?」

「うん。残業続きで会える時間が極端に減っちゃって。だから原因はあたし」

「彼氏さんに相談などは?『会えないから』というのを理由に不倫するのは、ちょっとアレだと思いますが」


 いくら何でもひどすぎる。残業という都合のいい言い訳を手に入れて、それで分かれたいという魂胆が見え見えだ。


「君、随分親身になってくれるね。勿論相談はしたよ。……真面目には聞いてくれなかったけどね」


 所謂ヒモ、という奴だろうか。話を聞く限り、跡部の彼氏はろくでもない性格の持ち主の様だ。


「それで最近だとこっちから連絡をしても完全に無視。当然向こうから連絡してくることもない」


 跡部は己を卑下するように両手を広げて見せた。


「で、こんな状態。君の言うとおりだよ、曲がりなりにもあいつはあたしの好きな人で、心の支えだったんだ。それが一本抜け落ちちゃった」


 当初思っていたよりも深刻な問題だった。単に仕事に疲れているのではなく、理不尽な運命に振り回されている人間の一人だった。


「跡部さんはどうしたいんですか」


 一ノ瀬はいたって冷静を装い、静かに瞬きをした。


「逃げちゃいたいよね。会社からも、彼氏からも。……まあ、彼氏は勝手に逃げてったんだけど」


 跡部はスマホを取り出し、時刻を確認した。


「ほんとだったらもう資料を提出しなきゃいけない時間だし。あいつは……今頃何してんのかな、別の女の所にいるのかな。生活費が足りればいいけど」

「薄情な男の心配なんていいじゃないですか」

「元恋人だから。それなりに心配はしちゃうんだよ」


 スマホをスーツのポケットに仕舞うと、深く座席に腰を落とした。


「ありがとね、なんか愚痴に付き合ってもらっちゃって」


 一ノ瀬はそれを無視し、コーヒーの残りを一気に飲み干した。


「僕の知り合いにもいますよ、逃げて正解だった人。……いいんじゃないですか、逃げちゃっても」


 跡部は意外そうに一ノ瀬を見るとにやりと笑った。


「そうかあ。そうしようかな」


 顎に手を当てて考えるそぶりを見せる跡部。


「ねえ、仕事からはもう逃げる気でいるんだけどさ、彼氏からも、完全に逃げちゃっていいと思う?」

「今はもう、好きじゃないんですか?」


 跡部は目じりを指で拭うと、座席に座り直した。


「うん。今は君が気になってるから。どう、私と付き合ってみない?」


 一ノ瀬は突然の告白に思考回路が追いつかず、口をぽかんと開けていたが、はっと我に返ると拒絶するように手のひらを跡部の方へ向けた。


「いや、それだと僕が傷心に付け込んだみたいじゃないですか」

「君、そういうの気にするタイプだったんだ。あーあ、振られちゃった」

「人聞きの悪い」

「割と本気だったんだけどね」


 穏やかに笑う跡部は、多少顔色が良くなったようだ。彼女の言う通り、今まで相当に溜め込んでいたのだろう。良いガス抜きになったのならば幸いだ。


「さて、心機一転する跡部さんにお得な情報が御座います」

「急な通販番組のノリはなに?」


 セールス口調になった一ノ瀬を面白そうに眺める跡部。


「跡部さん、あなたこの列車の年間パスをお持ちではないですね」

「年パス?そういえばそんなのもあったっけか」


 新鮮な獲物を見つけたオオカミのように跡部を見据えながら、一ノ瀬は内ポケットからパスケースを取り出した。


「ふむ、もったいないですね。丁度今キャンペーンをやっているのでこれを機に年間パスを作ってみては? 中々便利ですよ」


 物珍しそうにカードを眺める跡部。


「具体的には何ができるの?」

「いい質問ですね、まず一番の特典は……」


 一ノ瀬の言葉を遮るように跡部のスマホがバイブレーション振動する。スマホの画面を見る跡部は一瞬だけ固まったが、静かにスマホを鞄に仕舞った。


「電話、出なくていいんですか」

「うん。もう決めたから」


 そう言うと跡部は一ノ瀬の方へ顔を寄せた。


「で、さっきの説明の続きは?」

「そうでした。まずランクというものが存在しまして……」


 一ノ瀬は新規会員を会得するべく、列車と年間パスの魅力を余すことなく跡部に説明したのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エトランジェの車窓より ふじなみ @_fujinami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ