第2話 厄日
傍若無人という言葉がある。人目をはばからず勝手気ままに過ごす人間のことを指す意だが、所詮は慣用句、創作や過度な比喩表現でしか使われないものだと思っていた。それにそんな人間がぽんぽん出てこられても困る。姉が似たような性格だが、さすがに人の前では猫を被るし、第一赤の他人にまで自らの意見を強要することは無かった。
ところが先日、そんな姉によって形成されていたボーダーを高跳びのごとく越える人間に出会ってしまった。
日曜の昼下がり。この日は快晴だったため、一ノ瀬は薄手のコートを羽織って列車に乗り込んでいた。お気に入りの席に腰を落ち着けたところで軽い喉の渇きを覚えた一ノ瀬は、財布だけをポケットにねじ込み、駅構内の売店へと足を運んだ。軽食とコーヒーを手に、ウキウキで席に戻ってみると、そこには退屈そうに窓の外を眺めながら、優雅に座る女性の姿があった。
自分の席だという非難を精一杯込めて女性を睨みつけていると、こちらに気づいた女性は怪訝な目で一ノ瀬を見上げる。
「何見てんの?」
突然、その楚々とした外見からはおよそ想像もつかないような単語が飛び出した。かと思えば、女性は一ノ瀬が手に持っていたサンドイッチを掠め取る。
「ふーん、卵サンド。良い趣味してるじゃない」
包装を手早く剝いてからサンドイッチを頬張る。
呆気に取られている一ノ瀬を気にも留めず、女性はサンドイッチを完食してから指を舌で舐めた。
「コンビニのは口が乾燥するわね。味は悪くないけど、ベーカリーで作ってもらった方がいいわよ」
左手から今度はコーヒーを回収した女性は、喉を鳴らしてそれを飲み始める。
「ふーん、まあまあ」
半分ほどを飲んだコーヒーを窓枠に置き、ハンカチで手を拭きながら、女性はようやく一ノ瀬に正対した。
「及第点ね。私と話すことを許してあげる。光栄に思いなさい」
あまりにも不遜な態度のその女性に、一ノ瀬は怒りや呆れを通り越して尊敬の念すら抱いた。
「それはどうも。ええと、隣に座っても?」
「あら、見かけによらず大胆なのね。良いわよ」
女性の口元は笑みを形作ってはいたが、品定めするような目はしっかりとこちらに向けられていた。この青年はどこまでの人間なのだろうという好奇の視線。幼く見える外見を自覚している一ノ瀬は、そういった視線を向けてくる人間には慣れていたためにあまり気にはならなかったが、はっきり言って気分のいいものでもなかった。
そもそもここは自分の席だと抗議したいが、この女性が聞く耳を持つとは思えないし、下手に出ていた方が身のためだろう。コートの裾を遠慮がちに折りながら、一ノ瀬はゆっくりと座席に腰を落とした。
「で、あんた、何しに来たの」
息をつく暇も与えず、女性が質問を飛ばす。
「何って、列車に乗りに来たんですが」
「そんなこと分かってるわよ。何でわざわざ私の隣に来たのかって事」
なんとまあ自意識の高いお嬢様なのだろう。少しでも尊敬してしまった自分に後悔しながら、一ノ瀬は苦言を呈することにした。
「ここは予約席のはずですが。……席に荷物が置いてありませんでした?」
その言葉を聞いた女性は考え込むように視線をさまよわせると、何かに思い当たったように指をぱちんと鳴らして見せた。
「アレ、落とし物じゃなかったのね。搭乗員に届けちゃったわ」
あっけらかんとした様子で言ってのける彼女に、一ノ瀬は開いた口が塞がらなかった。席と昼食を奪った上、余計な手間まで掛けさせ時間すら奪うとは。一刻も早くこの女性の前から立ち去りたくなった。
「それは……どうも。では荷物の回収に行こうかな。ええ、あんまり長居しても迷惑でしょう。では良い旅を」
「ちょっと待ちなさい」
だが彼女はそれを許さなかった。腰を浮かしかけた一ノ瀬は、肩を掴まれて椅子に引き戻される。驚いて彼女の方を見ると、あの値踏みする視線はいつの間にか遊び相手を見つけた子供のような視線に変貌しており、開いた瞳孔に捕らえられた自分を認識した時、一ノ瀬は既に逃げるタイミングを逸したことを理解した。
「あんた、名前は?」
「それは聞いた側から言うのが礼儀じゃないんですか」
「私は別よ」
一ノ瀬はため息をついた。
「一ノ瀬陽太。太陽の逆で陽太です」
「どっちかって言うと月じゃない?色白だし根暗そうだし」
嫌味だが上手いことを言う。一ノ瀬は眉間に皺を寄せながら答える。
「人を外見で判断するのは良くないですよ」
「それには同意ね。全く、中身まで知ろうとしない人間が多すぎるわ」
お前が言うなと財布を投げつけてやりたかったが、世間体というものがある。一ノ瀬とてこの列車を出禁にはなりたくない。怒りを腹のうちに収め、なるべく穏やかな口調で聞いた。
「その、あなたのお名前は?」
彼女は意地悪く微笑んで見せる。
「知りたい?」
「いえ別に」
今一度立ち去ろうとする一ノ瀬を今度は腕を掴んで抑えにかかる女性。
「生意気ねあんた。気に入ったわ。私の名前教えてあげる」
女性は片腕で一ノ瀬の腕を掴んだまま、もう一方の手で髪を後ろにかき上げる仕草をして、不敵に笑って見せた。
「私は
「なんの界隈ですか」
「政治よ」
「成程」
全く興味がなさそうに答える一ノ瀬の反応を予想していたかのように夜帳は鼻を鳴らす。それから一ノ瀬の腕を放した。
「だから知ることになるって言ったでしょ。その空っぽの頭に色々詰め込んであげるわ」
「遠慮させてもらいます」
「気を使わなくていいのよ」
そう言うが早いか夜帳はスマホを取り出すと、画面に写真を表示させた。
「社交パーティーの様子よ。この人なら流石にあなたも知ってるんじゃない?
写真には豪華な食事を囲むように五人が座って映っている。右側にはドレスに身を包んだ夜帳が微笑んでおり、その隣では夜帳の父親らしき人物が同じく微笑んでいる。夜帳たちと向かい合っている三人のうち一人には確かに見覚えがあった。夜帳が手で示したのはアンダーフレームの眼鏡をかけた、いかにも仕事が出来そうな美人。言われてみれば、ニュースか何かで見かけた事があったかもしれない。
「えーと、電子防衛省の……」
「外貨経済省よ」
夜帳はやれやれと言わんばかりに首を振ると、一ノ瀬の方へ更に身を寄せた。
「で、こっちの写真が大臣秘書の
嬉々として写真を見せながら説明をする夜帳。一ノ瀬は話半分で相槌を打っていたが、ふと、スマホケースのポケットに刺さっているカードに目が吸い寄せられた。車内の淡い照明を反射する鈍色の銀は、紛れもなく年間パスのプラチナを示す色だった。
「これ、凄いですね。久しぶりに見ましたよ」
思わず夜帳の腕を掴んだ一ノ瀬に、彼女は驚きの声を上げる。
「ちょっと、急に何!」
「あ、すみません。興味深いものがあったので、つい」
「興味深い……?まさかあんた、この女みたいなのが好みなわけ?」
不機嫌さを隠そうともせず眉を寄せている夜帳のスマホには、満面の笑みでカメラに向かってピースサインをしている女性と、その隣で引き攣った笑みを浮かべる夜帳が写っているツーショットが表示されていた。
女性はゴスロリの衣装を着ており、その小さな背丈にそぐわない大きな胸がこれでもかというぐらい強調されている。女性の周りを守るように立つスーツの男たちから、その女性がアイドルのような立場にあるということがうかがい知れた。
「いや違いますが。あと、こういう女性とは多分話が合わないと思いますよ。なんというか……腹黒そうだし」
一ノ瀬の言葉を聞いた夜帳は小さく噴出した。
「あはは!あんたもそう思う?実際そうなのよ!私には遠く及ばないけど、それなりに容姿が良いからってちやほやされて、それでいい気になってるのよ。話してみれば分かるわ、あの耳障りな猫撫で声は大勢がいるところでだけ。楽屋に戻ったらマネージャーを顎で使いながら他の子たちの嫌味ばかり。本当、こういうのが好きなやつって見る目無いわよね」
別にそこまで言ったつもりは無いのだが、彼女らには深い因縁があるらしかった。気の利いた返しも思いつかず一ノ瀬は曖昧に頷く。
「その人なりの世渡りなんじゃないですかね。顔が武器なのは正しいですし。好きじゃないしあまり褒めたものではないですけど」
「……それに関しては、同感ね」
話は終わりとばかりに夜帳はスマホの電源を切った。
「で、何が興味深いの?」
「え?」
「高貴な私の腕を掴んでまで気になったものは何かしら?」
てっきりスルーされたものと思っていたばかりに、一ノ瀬は驚いた。この自分勝手なお嬢様に、人からの質問を覚える気が残っていたとは。
「随分失礼なことを考えているみたいだけど。あんた分かりやすいわね」
半眼で一ノ瀬を睨む夜帳。
「嘘がつけないのが取り柄ですので」
「……」
これ以上の軽口は火に油だろう。一ノ瀬は咳払いをしてから、夜帳の持つスマホに指を向けた。
「夜帳さんって結構この列車使ってますよね?」
「まあね。それがどうかしたの?」
「実は僕もなんですよ。長い事お世話になってるんです」
「へえ」
夜帳は合点がいったように指を鳴らすと、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「分かったこれでしょ、年間パス」
そう言って夜帳はスマホケースからカードを抜き取ると、一ノ瀬の前でひらひらと振って見せた。
「そう、それです。プラチナになるには累計で十年、継続して二年間乗車する必要がありますからね。それほど乗ってる人には滅多にお目にかかれないんですよ」
「当たり前じゃない、この列車はパーティーであちこち飛び回る私の生命線だし。それでなくともプライベートの時には必ず利用するしね。ま、お得意様ってとこかしら」
自慢げに胸を張る夜帳に一ノ瀬は質問を重ねる。
「年間パスを取ったのはいつ頃なんです?」
「確か九歳ごろだったかしら。昔からパパとはよく旅行をしてたから、折角だしって取ったの。その影響で今でも一人旅が好きなのよね」
「確かに、一人旅っていいですよね。色々な人と出会えるし、その人たちから面白い話を聞けるし」
「そうそう、旅は道連れ世は情けってよく言ったものよね。世界は広いけど、日本だって広いわ。私のまだ知らない文化や思想が沢山あるもの」
そう言って夜帳はにっこりと笑う。屈託のないその笑顔からは、彼女が本気で旅を好きでいるのだということが分かった。旅が好きな人間に悪い人はいない。その持論を掲げる一ノ瀬は、夜帳に対する評価を少しだけ改めることにした。
「もしかして今日もですか?」
「そうよ。誰かさんのせいで二人になっちゃったけど」
「サンドイッチとコーヒーを奪っておいてよく言いますね」
「私と話せただけでもお釣りがくるわよ」
夜帳は窓辺に置いてあるコーヒーを、わざとらしく喉を鳴らして飲み干す。一ノ瀬は恨めしそうにそれを見届けてから、腕時計に目をやった。発車からすでに一時間が経過しており、一ノ瀬の目的地まであと数分といったところだ。
一ノ瀬はコートの襟を直すと、ゆっくり席を立った。
「夜帳さん、今日はありがとうございました。おかげで楽しい時間を……いや、プラマイゼロですかね、いつか昼食の借りを返してもらいますよ」
「どうかしら。二度も私に出会ってしまったら、それこそ人生の運を使い果たすことになるわよ」
「勘弁してほしいですね」
「当然の代償じゃない?」
「毎年宝くじを買ってるんで、運をあまり消費したくないんですよ」
「みみっちいわね。私と話す方がはした金よりよっぽど有益なのに」
ああいえばこう言う夜帳も、少しだけ名残惜しそうに唇を尖らせた。
一ノ瀬は軽く会釈をすると、荷物のありかを聞くべく乗務員車両まで歩き出そうとする。
「待ちなさい」
後ろからの声に、一ノ瀬は振り返った。
「なんでしょう」
「そういえば聞いてなかったわ。あんたのランクってどんなものなのよ」
「言ってませんでしたね」
一ノ瀬はコートの内ポケットからケースを取り出すと、夜帳にそれを開いて見せた。
彼女はケースをひったくると目線の高さに持ち上げる。笑みを浮かべていた表情は凍りつき、彼女の手が次第にわなわなと震え始める。
「あの、お客様。通路に立たれていると他のお客様のご迷惑になりますので……」
「あ、すみません。すぐにどきます」
いつの間にか後ろに来ていた搭乗員に注意をされた。ついでに忘れ物がどこに置かれているのか聞くと、ラウンジ車両に保管してあるとの回答があった。ラウンジ車両とは昼食や夕食を取ることのできる車両であり、レストランのようになっている。なんだか列車に乗っている気がしないので、一ノ瀬はあまり利用したことがなかった。
「あの、夜帳さん?そろそろ……」
未だにケースを睨みつけている夜帳は微動だにしない。途方に暮れた一ノ瀬は夜帳の隣に座り、わざとらしく咳ばらいをした。
「夜帳さん」
「聞こえてるわよ」
一ノ瀬の鼻先にケースを突きつける夜帳。
「初めてだわ」
「何がです?」
夜帳はケースを一ノ瀬の膝に放ると腕を組んだ。
「私が誰かに何かで劣ったことよ。ましてやそれが、お気に入りの列車でだなんて」
「劣ってるだなんてそんな、別に競い合うものではないでしょう」
「私の心持ちの問題よ。両手の指に収まる程しかいないと言われているそのランク、私ぐらいの年齢はその中に居ないって言ってたのに」
悔しそうな表情で一ノ瀬を見る夜帳だったが、何かを思いついたように指を鳴らした。
「あんた、最寄り駅はどこ?」
「え?大淀ですけど……」
「大淀?なんだ、すぐ近くじゃない」
そう言って夜帳はスマホを取り出すと画面を操作し始める。
「明日……いや、十六日なら空いてるわね。一ノ瀬、水曜に大淀駅に来なさい」
「何でですか」
「どうせ暇でしょ?移行期間で大学は休みだし、そもそも予定なんか無いでしょう」
「まあ暇ですけど……」
「じゃあ決まりね」
一方的に約束を取り付けた夜帳は満足気に頷き、スマホに何か打ち込み始めた。
「間もなく和部に到着いたします。お降りの際は忘れ物にお気を付けください」
アナウンスが流れると同時に、電車が減速し始める。にわかに車内が騒がしくなり、荷物をもった乗客が通路を通り過ぎた。
「僕はここで降ります。夜帳さんはどこまで行くんですか?」
「
成程、確かに道善坂は大淀から二駅の距離だ。どちらも主要都市の中心部に位置しているために人の往来が激しく、また人口も多い。
列車が完全に停車し、到着のアナウンスが流れた。次々と降りていく乗客に続こうとする一ノ瀬を、再び夜帳が呼び止めた。
「一ノ瀬、十時よ。遅れたら承知しないから」
有無を言わせないような口調で、だが楽しそうに言う夜帳。
「分かりましたよ」
一ノ瀬は苦笑いしながら会釈をし、ホームへと歩き出した。
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