第1話 会社員の場合

 その日も一ノ瀬は、座り心地の良いシートに身体を預けながら列車に揺られていた。駅の購買で買ったペットボトルのコーヒーを飲み、すっかり陽の落ちた街並みを眺めながら。


 自宅よりも過ごした時間が長いのでは、と思ってしまうほどにこの列車に馴染んでしまった一ノ瀬は、平日の夜に日々の疲れをこの場所で癒すことにしている。

 騒めく乗客の声もせず、規則的に響く駆動音に耳を澄ませながら目を閉じていると、ふいに隣から人の気配を感じた。


「申し訳ない、隣いいかい」


 そう声をかけてきたのはサラリーマン風の男だった。


「すみません、荷物どかしますね」


 一ノ瀬がショルダーバックを膝の上に抱えると、その男は片手を軽く上げ、隣に腰を下ろした。


「ふう」


 ネクタイを緩め肩の力を抜く男。かけていた眼鏡を手に持ち、手慣れた様子で拭き始める。それを視界の端でとらえながら腕時計を見ると、既に九時を回っていた。後三十分もすれば目的地に着くだろう。


 それにしても珍しい。今一ノ瀬が座っている席は列車の中でも中途半端な位置にあたる。時間が時間なだけに普段なら人が滅多に来ない場所であり、平日なら尚更だ。知る人ぞ知る穴場的な場所だと気に入っていただけに、一ノ瀬は隣に座る彼に対しほんの少しだけ腹を立てた。


「良かったらどうぞ」


 一ノ瀬は新品の缶コーヒーをバックから探し当てると、隣に座る男に差し出す。

 男は一瞬戸惑った表情でこちらを見たが、すぐに表情を緩ませてそれを受け取った。


「ありがとうございます」


 プルタブを引き起こし、くいっと豪快にあおる男。一ノ瀬は口元だけで笑うとその男に切り出した。


「こんな時間までご苦労様です。残業ですか?」


 口の端を拭いながら、その男は答える。


「ええ、そんなところです。大事な時期でして」


 飲み切ったスチール缶をドリンクポケットに置き、男は一ノ瀬の顔を見下ろした。


「コーヒー、ごちそうさまです。それはそうと君、見たところ中学生の様ですが。こんな時間まで外にいると、親御さんが心配しますよ」


 なんと失礼な男だろうか。高校生ならまだしも中学生と間違えるとは。イラっとしたが顔には出さず、一ノ瀬は精々余裕を見せつけるように言った。


「失礼な。私はこれでも成人しています。酒も好きですし、この先一生しないでしょうが煙草も吸えます」

「ふむ、君が言うのならそうなんでしょうね」


 男はなだめるように言うと、一ノ瀬から視線を外し、背もたれを少し下げた。


「では、私はそろそろ。君も目ぐらいは閉じておいた方がいいですよ。寝る子は育つ、と言いますし」


 話は終わりとばかりに寝にかかる男。それを半眼で睨みながら、一ノ瀬はペットボトルに口をつける。


「旅は道連れ、世は情け……少しぐらい話に付き合ってくださいよ。黄泉戸喫よもつへぐいだと諦めて下さい」

「ヨモツヘグイ?……ああ成程」


 男はやれやれとでも言いたげに首を振ると、スチール缶を指で軽くはじいた。


「何の話がしたいんです?生憎、気の利いた話題は持ち合わせがなくてね」

「いいえ、簡単な質問をするだけです。まあそう身構えずに。私が降車するまでの間、二十分かそこいらの辛抱ですよ」


 一ノ瀬は座る位置をずらしてから、指で自分のカードケースをとんとんと叩いた。


「あなたのランク、ゴールドですよね」


 男は何も答えず沈黙している。


「恐らく降りる駅は唐跡。まあ、通勤でこの路線を使うなら当然とも言えますがね」

「何故わかるんです?」


 先ほどとは違い少しだけ興味を持ったような目で一ノ瀬を見つめる男。カードケースをくるくると弄びながら一ノ瀬は答えた。


「経験則からですかね。覚えてるんですよ、全部の駅と乗る人々、その種類を」


 一ノ瀬は誇るでもなくそう言ってのけた。そして、


「そんな人たちのエピソードを聞くのが私の趣味でして」


 そう付け加えた。


 唾をのむほどの間が開いてから、男が口を開く。


「君のランクは?」


 一ノ瀬は手を止めると、中から漆黒に塗られたカードを半身だけ見せた。男は心底驚いたような表情でそれを見ていたが、やがてはっとしたように椅子に座り直して足を組むと、眼鏡を指で押し上げる。


「そうですか、大口を叩くだけの理由があるんですね」

「ええ、まあ」


 どうやら男は、ようやく一ノ瀬を話す価値のある人間だと認めたらしい。男は前を向いたまま自己紹介を始めた。


「私は遠藤道也えんどうみちや。しがない会社員です。……あなたは?」

「一ノ瀬陽太、さっきも言いましたが大学生です」


 『大学生』という部分を強調した一ノ瀬に遠藤は苦笑いすると、


「ええ、認めますよ。そのランクになるには最低でも十五年は必要なはずですからね」


 と言い、鈍く金に輝くカードを内ポケットから取り出した。


「どうしてこの列車に乗ろうと思って、さらにはゴールドにまでなったんです?」

「あまり気分のいい話ではないですよ」


 遠藤はそう前置きをすると、小さくため息をついた。


「こんなはずではなかったんですよ。私の人生。それこそこの列車のように、敷かれたレールの上を進むだけでよかったはずなんです」


 遠藤は幾分か声のトーンを落としてからぽつぽつと語り始めた。


「私が中学生の頃に親父の勤め先が倒産して、家族を養うために、高校に行かず働くことを選択したんです。学歴も何もない私を、社会は当然のように冷たく迎えました。血反吐を吐くような労働の日々。それでも、私の努力を評価してくれた上司がいたんです。その人の推薦で正社員になることが出来、まともな生活が出来るようになりました」


 一ノ瀬は相槌を打ちながらコーヒーをもう一口飲む。


「そんな私にも恋人ができて、ようやく普通の幸せが訪れたと思っていたんです。……親父が借金を作るまでは」


 遠藤はそこで言葉を切ると足を組み替えた。心地よい駆動音が辺りに遠慮がちに満ち、電車が静寂を取り戻す。


 二人の間に下りる沈黙。何もしなければ、このまま遠藤は話を終えてしまうだろう。遠い目をする遠藤はうっすら唇を噛んでおり、記憶の底に押し込んでいた何かを見ているようだった。


「それで、あなたは」


 一ノ瀬がそう聞くと、遠藤は視線を宙に固定したまま話す。


「逃げました」

「……」

「そうですね、君ぐらいの歳だったはずです。口座は分けていましたからある程度の貯金は残っていました。……共有資産は全滅でしたが。無我夢中で駅を探して、乗ったのがこの列車なんです」

「それ以来ずっと?」

「ええ。当時はとにかく遠方へ逃げることだけ考えていたので、下りた先で新しい生活を始めたんです。以来列車は毎日欠かさず利用していますよ」

「ご家族との連絡は取ってるんですか?」

「いいえ。いま生きてるのかすら分かりません」


 遠藤は一ノ瀬の顔を見ると少し笑って見せた。どこかすっきりしたような、穏やかな表情だった。


「ね、面白くもない話でしょう」


 正直なところ、なんとも反応に困る話だった。不幸話というのは今までも聞いたことはあるが、ここまで重い話は聞いた経験がなかったし、ましてやこんな堅苦しそうな人間が、こんな過去を背負っているとは思ってもいなかった。人を見かけで判断することが如何に困難で失礼に当たることかがよくわかる。


「正直に言いますと」

「ええ」

「とても、反応に困りました」


 遠藤は噴出した。


「ははは、そうでしょう。もし私が君の立場だったら、途中で寝たふりをしているでしょうね」


 遠藤は眼鏡を外すと、ゆっくり、丁寧に拭き始める。彼は笑ってはいるが、きっと動揺もしているのだろう。恐らく、この話を人にしたのも初めてのはずだ。だからこそ、誠意をもって返さなければならない。


「遠藤さん。私にこの話をしてくださってありがとうございました」

「そうだね。こんな話をするつもりなんてなかった」


 嫌味っぽく言ってから遠藤は眼鏡をかけなおすと、ふっと短く息を吐いた。


「でもまあ、偶にならおしゃべりも悪くはないですね」


 遠藤が言い終わると同時に、体が前に傾くのを感じた。そして、列車内を良く通るアナウンスの声が駆け抜ける。


大淀おおよどです。お降りの方は……」

「あ、この駅で私は降ります」

「おや、君の話を聞きそびれましたね。さてここからという所だったのに」

 一ノ瀬はバツが悪そうに頬を掻くと、鞄を持って立ち上がる。

「それはまたの機会に。この列車を使っている限り、また会えます」

「それもそうですね。楽しみにしてますよ」


 にやりと笑う遠藤。一ノ瀬はそれに会釈で返すと、列車からホームへ降り立った。


 温かい車内から冷たい外気に触れ、肌が粟立つ。手をこすり合わせていると列車がゆっくりと動き始める。

 列車は瞬きのうちに加速していき、夜の闇に溶けていった。

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