儚さというもの

紫鳥コウ

儚さというもの

 ひとの命は儚いと言うこともあるが、雨後の虹のような束の間の美しさを表すのではないのだから、残酷な比喩をもってした方がよいのではないかと思う。


 例えば、勾配こうばいの急な下り坂を、土埃つちぼこりにまみれながら転がり落ちていく有様と表現すれば、ひとが落命していく時間の広がりを、あの凶暴すぎるほどの痛ましさを、いくぶんかは描写することができるだろう。


 踏ん張る力がなく、魂が宿っていないかのような表情をして転がる者を見る我々もまた、悲しみなどという感傷的な情にるものではない、受け止めきれない現実を、あえて受け止めようとする、あのむごたらしい経験を反復し続けなければならない。それをこの比喩は的確に表現しているように思う。


 だが、こうした比喩は比喩である以上、伝説上の生き物たる龍が、我が身に襲ってくることなど考えられないように、実感を伴わない想像の戯れに過ぎないわけだが、実際に急勾配を幼子の前転のように、巻物を広げるときのように、傷だらけとなりながら転がり落ちていく者が身近にいる場合についていえば、話は変わってくる。


 それは目をらしたくなる光景であり、自分の傍から遠ざけたくなるほどの受けいれがたさを惹起じゃっきさせる、現実的な感覚である。しかしまだ、病苦にあえぎ近いうちに息絶えるかもしれない母の様子を見ていない分、父や兄やその他の家族より、どこか楽観的な部分がある。


 今日は帰れないむねを兄に報告した際、今夜が峠であることを知らされたが、もしかしたら、下り坂をむごたらしく落ちていく母を見ないことは、親孝行のひとつなのではないかと思われてきた。忠臣の切腹が美徳と言われるように、母の死を遠くで聞いてその場で泣き崩れ嗚咽おえつすることは、清々しいみそぎのひとつのように錯覚されるのである。


 実家の最寄り駅に停まる電車が豪雪のため運休しているというしらせをT駅で知ったとき、それは、愛する者を愛しきれないときのようなもどかしさ、つまり、相手が満たしてほしい欲望を充足することができないときの、あの、苛立いらだたしさと焦燥感しょうそうかんを覚えた。


 僕はT駅の外に出てタクシーを探した。しかしT駅の周辺は、雪を剣山けんざんにした活け花と化していた。ここから五十キロ先の実家まで走ってくれるタクシーなどありはしなかった。


 実家に電話をかけてみると、冠雪はおぞましく、村の人びとみなが命の危険を感ずるほどだという。もはや、打つ手はない。吊り橋の中途で尻込みしていると、斧を持った山賊が現れて縄を切ろうとするときがあるとして、あらゆる手段を講じたところで彼らを説得することなどできないとしたら、その場で泣きわめき命乞いをするしかない。


 ようは、状況は好転しないものの、好転させようとは試みる。そのように擬制ぎせいするのである。僕はT駅の待合室でこうべを垂らして運転が再開するのを待った。しかしあたりがうす暗くなっても、その報せは届いてこなかった。


 ここから二駅先までは走れるようになったそうだが、そこへたどりついたところで、泊まるところなんてありはしない。僕は暗がりに充満するうすら寒さを、視覚を通して感じながら、ビジネスホテルに向かった。T駅のすぐ近くにそれがあることは知っていた。同じく足止めされた者たちが大挙して押し寄せたせいで、部屋はどんどん埋まっていったらしいが、僕は三階の角部屋に入ることができた。


 僕はベッドの上に横たわりながら、明日も電車は動かないだろうと思いはじめていた。窓に打ちつける風は、ボクサーの殴打のような鋭さと、棋士が王手を宣告するときのような、勝ち誇った微笑をたたえているように思えた。そのせいで僕は眠ることができず、不愉快は募る一方であった。疲労はより鈍重どんじゅうさを増していった。


 もう眠るのはあきらめようと、部屋をあとにした。そしてエレベーターを使って一階まで降りた。ロビーには僕と同じく寝られないのであろう宿泊客がひとりいて、煙草をくわえて昨日の朝刊を読んでいた。僕もまた、適当に雑誌を選ぶと、椅子に深く腰をおろしてそれをぺらぺらとめくっていまにいたる。


 以上の内容は、ある境を機に、雑誌に載せられた小説から現実世界の話へと移ったのであるが、それがどこであるかは、筆者であるわたしが言うまでもないであろう。

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