第68話 巡る因果と結末の果て
今日は私と旦那の初めての結婚記念日。
せっかくなら美味しいディナーにでも行って、お祝いしようと張り切っていた彼も、この日は聞いていた通りすごく複雑な表情をしている。
全て分かっていた事だけど、ずっと前から楽しみにしていた彼を、こんな気持ちにさせてしまったのは心苦しい。
もう誤魔化しようもなく、浮気疑惑を持たれている。
「さっきのお店、雰囲気も良かったし料理も美味しかったね。記念日に相応しい素敵な思い出になったよ」
こんなどこに行っても並べられそうなありきたりな言葉しか、今の私の脳内には思い浮かんでこない。
だけど三日前の行動は間違いだなんて思えないし、
だから私は彼に真実を伝えないし、いつも通りの私でいる決心をした。
「ねぇ
なんかずっと静かだし、時々顔が引きつってるよ?
職場でなんかあった?」
すごく白々しいのは分かっているけど、この沈黙と、今日を無事に乗り切れるかハラハラしている状態に耐え切れない。
背中を丸めて黙ったままの彼の顔を、どんな様子か確認したくて覗き込んだ。
こんなに意気消沈している彼を見るのは、本当に久しぶりだけど、私の浮気を疑っているのだから仕方がない。
今の私に出来るのは、彼に新しい明日を見せてあげる事だけ。
一月の冷たい空気が流れに乗って肌に突き刺さり、彼は溜め息混じりに少しだけ口を開いた。
「なんでもない……と言えば嘘になるな。
想像通りの返答だった。彼はこの三日間それだけを思い悩んで過ごしてきたのだろう。
正直に言いたい。あの人は私の幼馴染であり、昔のあなたでもある。
病気になって色も見えないあの人と、約束を果たす為にずっと見守ってくれていた幼馴染の、最後の願いを聞き届けたかっただけなのだと。
でも未来のあなたはそれを望んではいない。
あなたが自分自身に助けられてここまで来た事を知れば、私を純粋な心のまま幸せにする事が出来なくなるからと。
結局あの人にとって大切なのは、自分よりも周りの幸福。
もちろんあなたもそう。
「隠し事? なんだろう。
昨日の妊婦健診でも、まだ赤ちゃんの性別は分からなかったよー………とか?」
だから私も隠し通す。
私はあなた達のどちらかではなく、どちらのあなたにも幸せになって欲しいから。
私をこんなにも想ってくれる
だから無理にでも、いつもの自分らしく振る舞い続けてみせる。
「う・そ! 本当はね、男の子っぽいねって言われたよ!」
こうして普段のイタズラっぽさを見せていれば、彼も少しは考え方を変えるかも知れない。あれは浮気ではなく、何か別の事情があっての行動なのかと。
私が許されたいのではない。それで彼の心の
だからそれ以上苦しそうな顔をしないで欲しい。私が愛しているのは紛れもなくあなただから。これからもずっとそばに居させて欲しい。
しかしそんなに都合良くはいかない。
彼はいつもより低い声を出し、核心に迫る発言をした。
「三日前なにしてた?
俺はその日会議の後、あの店の付近を車で通ったんだけど」
結局何も変わらなかった。あの場所で目撃されるとは聞いていたけど、そんなピンポイントに車を走らせていたなんて、さすがに驚きを隠せない。
しかし錬次くんが変えさせたのは、あくまでも予約するお店だけ。私がいくら気丈に振る舞ったところで、彼からの疑心が拭えるほどの変化はつけられない。
やっぱり同じ道を辿ってるんだ。
何も打ち明けないでくれと言われたけど、もうあの事実だけでも伝えるしかない。
「そっか、見られちゃってたんだね……。
今日言うべきか悩んだんだけど、いつまでも隠せる事でもないもんね。実はさ……」
言いかけたその刹那、車道側から猛スピードで走ってくる乗用車が視界に入った。
言葉を繋いでも、ガードレールが破壊される音に掻き消されて、自分の耳にすら届かない。
そんな馬鹿な。私達は店を変えて、今歩いている道も前回とは違うはず。
それなのに結局彼は事故に遭ってしまうの?
壱谷千智を巡る因果は、どう足掻いても変えられない運命として決まっているの?
絶望に立ち尽くした私を、彼は身を挺して庇おうと飛び付いてくる。
このままではダメ。
本当に彼を失ってしまう。
突き飛ばされた私は、恐怖と困惑で強くまぶたを閉じるしかなかった。
「………千智くん!」
恐る恐る目を開けると、そこには潰れた車の前に横たわる旦那の姿が……。
私は血の気が引いた。
こんな風に彼を失うくらいなら、ちゃんと全てを告白して、もっと大きく未来を変えれば良かったと後悔した。
その場で膝をついて泣き崩れるしかない自分が、どうしようもなく無力で情けなく思える。
「いてて……。無事か一美?」
「千智くん⁉︎ あなたこそ大丈夫なの⁉︎」
「あぁ。少し腕はぶつけたけど、車のスピードも落ちてたし平気だ」
心臓が止まるくらい嬉しい。
ちゃんと未来は変わっていた。
彼は打撲と膝を擦り剥いただけの軽傷で済んだみたい。
加害者の事もあったので警察と救急車は呼んだが、病院に着いても怪我の処置はあっという間に終わる。
処置室から出てきた彼の顔を見た時は、安堵感から思わず抱き付いてしまった。
「そんなに泣くなよ。
お腹の赤ん坊も平気そうか?」
「うん。一応明日検査は受けるけど、尻餅ついただけだし」
「そうか、それなら良かった」
まだ素直に喜べない様子の彼を見て、ものすごく胸が痛む。
私は病院のロビーで、事故前の話しの続きをする事にした。
「千智くんも座って」
彼は覚悟を決めるように、ゆっくりと隣に腰を下ろす。
「三日前……錬次くんの事だよね」
「やっぱりあれは錬次だったんだな。
見間違えじゃなかった」
本当は別人であって欲しい。そんな声色をしている。
「彼と私は幼馴染なの。
昔はよく遊んでもらってた」
「初耳だな。それで手まで繋いだのか」
「そうじゃないよ。彼には
「岸田さんとそんな関係だったのか。
じゃあ何故?」
声の張り方が徐々に威圧感を帯びていき、まだ何も納得出来ないと言いたげに感じる。
「彼に残された時間はあまり長くない。
脳腫瘍で入退院を繰り返してるし、もう色も認識出来ない状態なの……」
「はぁ⁉︎ そんなの聞いてないぞ!
あいつからは時々連絡も来るし!」
「言えるわけないよ!
あの人はあなたと私の邪魔をしないように、ずっと千紗ちゃんと二人で頑張ってたんだから!」
そう言っている時にはすでに心が張り裂けそうで、頬を伝う涙が止まらなかった。
「最後に思い出の場所を見ておきたかったの。私達を繋げてくれた大杉店を。でも彼には色が見えない。せめて私の手から、それだけでも伝わってくれればいいなって思って、彼の手を取ったの」
それでも浮気だと認識される可能性も考えた。でもこれ以上嘘は塗り重ねられないし、そう思って手を繋いだ気持ちもある。
しかしそれを聞いた彼は、鼻を啜って目を潤ませ始めた。
「あいつ、なに考えてんだよ……。
俺に心配かけなくたって、一美にこんなにも抱え込ませてりゃ、なんも意味ねぇだろ‼︎」
千智くんにとって錬次くんは今でも良い友達。それを改めて実感させる男泣きに見えた。
悔しさで拳を握り締めながら、その腕で涙を拭う姿は、私の心まで掴んで離そうとしない。
「そうだよね。
錬次くんは本当にバカだよね……」
どう受け止めれば良いのか分からないまま、ただその気持ちに寄り添いたくて、彼の頭を強く胸の中に包み込んだ。彼もまた、私の背に腕を回してくれる。
「お見舞いに行こ。
あの日から目覚めてくれないの」
「な……、あいつ三日も眠ったままなの⁉︎」
「うん……
この間も千紗ちゃんのメイクで、顔色を誤魔化してたんだよ。また体調は悪化してる」
「それで痩せてたけど、元気そうに見えたのか……」
その夜は家に帰ってすぐに休んだが、眠りにつく事は出来なかった。ちゃんと明日を迎えないと、彼が遠くに行ってしまいそうで不安だったから。
本当の真相は告げられないままだけど、その大部分を伝えて今も隣に居られるのは、すごく幸せだ。
またみんなが元気になって、一緒に出掛けたりしたい。
そんな願いを噛み締めながら、千智くんに包まれている。
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