第67話 届けたい想いは何度でも

 結婚記念日まであと二日。

 昨日、私の目の前で倒れた錬次れんじくんは、依然として目を覚まそうとはしない。肉体の持ち主だったお兄ちゃんが消えてしまい、なんとか命だけが繋がっているように見える。

 錬次くんは――未来から来た千智ちさとくんは、今もこの体の中にいるのだろうか。

 そんな不安を抱えながら、仕事後に様子を見に来ていた。

 話す相手も居ないままボーっと座っていると、静かに病室へと入って来た千紗ちさちゃんが、無言のまま隣に立つ。

 やはり帰宅前に寄ったみたいで、ビシッとしたスーツ姿だった。

 


一美ひとみちゃん。壱谷いちたにさんの様子はどう?」

 

「昨夜は家に着いても、疲れてるからってすぐ横になっちゃった。今朝もご飯は食べてたけど、ギリギリに起きて慌てて先に出掛けたから、何も分からなかったよ」

 

「そっか。年明け間も無いし、忙しいのは間違い無いもんね。食事や睡眠に影響が出てないなら、平気だったのかな?」

 

「うーん、布団には入ってたけど、眠れてなかったのかも。朝ごはんも、とりあえず口に詰め込んでた感じだったし……」

 

「それだと余計に心配だね。

 せめて話しが出来れば……」

 


 私は十中八九避けられたと思っている。どんなに忙しくても、千智くんは子どもみたいな笑顔を見せてくれた。だけど昨夜からの彼は、しんどそうな顔しかしていない。勤務中の出来事で苦しんでいる可能性もあるけど、タイミング的にも、浮気を疑う要素を見付けたと考えるのが妥当だ。あんまり認めたくはないけど。

 


「でも錬次くんは約束してくれたし、きっと運命を変えてくれる……。ううん、もう変えてくれたんだと思ってる」

 

「じゃあ一美ちゃんからは、何も伝えないの?」

 

「だって私からじゃ、錬次くんの事を伏せながら上手く言える自信がないもん……。ここで千智くんに見放されたら、それこそ私はどうにもならなくなる」

 

「一美ちゃん……」

 

「だからギリギリまで待つよ! 最優先は千智くんの命だから、当日になっても錬次くんが目を覚まさなかったら、玉砕覚悟で全部暴露する!」

 


 心にも無い事を口にしていた。いや、今の私の声を聞いて、あわよくば彼に目覚めて欲しかった。だって私はもう、彼を信じるしかないから。

 千智くんに直接話すのは、最終手段として残しておくけど、全く気が進まない。錬次くんは未来が変わっていると言っていたし、彼の行動を否定したくもない。

 だからもう目を開けて、いつもみたいに話し掛けて欲しい。


 手の震えを必死に抑えていると、千紗ちゃんのあたたかさにぎゅっと包まれた。

 


「千紗……ちゃん?」

 

「ごめんね。

 一美ちゃんまでこんなに辛くさせちゃって」

 

「なんで千紗ちゃんが謝るの?

 元はと言えば、巻き込んだのは私達だよ?」

 

「うちがちゃんと彼を止められていれば、こんな思いはしなくて済んだんだから。うちらのせいだよ」

 

 そんなのおかしい。一番苦しみ続けて、それでも懸命に彼を支えてきたのは千紗ちゃんなのに、彼女が責任を感じるなんて。私はただ、そんな年上の三人に助けられてばかりだった。

 


「違うよ千紗ちゃん。誰のせいでもない。過酷な運命に立ち向かう錬次くんを、私達が大好きだっただけでしょ?」

 

「そう……だね。いつも誰かの為に頑張ってた彼が、一回ぐらい我を通したっていいよね……」

 

「うん。ここから先の千智くんの未来は、私の手で守るよ」

 

「うちはまず、錬次くんが起きてくれないと、何も出来ないんだけどなぁ……」

 


 千紗ちゃんの眼から、悲しい色の涙が一滴零れる。このままでは、彼女の心が一番早くに壊れてしまいそうだった。

 きっと、前が見えない恐怖に怯える私よりも、愛する人の絶望を何度も目の当たりにしてきた彼女の方が、深い苦しみを抱えているはず。それでも立ち上がって周りに勇気を与える姿は、心から尊敬できた。

 私だったら、もうずっと前に逃げ出している……

 


「こんな寝坊助さんには、落書きでもしちゃおっか!」

 

「えぇ⁉︎

 一美ちゃん、そのペンどこから出したの?」

 

「仕事で使って、そのままポケットに入れっぱなしだった!」

 

「そうなんだ……。

 ……頭の包帯に書いたら、怒られるくらいで済むかな?」

 

「お腹に書いたって平気でしょー!」

 

「それはちょっと……。油性だし」

 


 渡したペンのキャップを外した千紗ちゃんは、巻かれた包帯の傷口に触れない部分に、ゆっくりと文字を書き始めた。

 ひと言だけ、『一緒にいて』と記した彼女の姿を見て、切な過ぎて胸がグッと締め付けられる。

 


「あーあ。これでうちは叱られちゃうなぁ」

 

「えー、私だったら喜ぶよ?」

 

「錬次くんはそうかもだけど、明日も看護師さんが包帯換えに来るもん」

 

「ごめん、そっちは考えてなかった……」

 


 明日までに目を覚ます事を祈りながら、その日は家に帰った。

 夕飯を作り始めてすぐに千智くんも帰宅したが、疲れた様子でそっけなく風呂に入り、そのままベッドに潜ってしまう。

 


「千智くん、ご飯は?」

 

「ごめん。店長として初めての年始営業で、くたびれ果ててるんだ。明日の朝食べるから、今夜はもう寝かせてくれ」

 

「そっか。わかった……」

 


 まるであっちに行けと言われてる気もしたが、まだ二人で出掛けるまでは一日半ある。今はそっとしておこう。


 しかし翌日になっても、千智くんだけではなく、錬次くんの状態も全く変化はない。


 もどかしい気持ちに呑まれたまま、運命の日が訪れる。


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