第66話 変えないという選択の末
電車を降りたのは、いつも私が通っている職場の最寄駅。つい昨日もここへ来たのに、わざわざ休みを取ったこの日まで、この場所に来る羽目になるなんて思わなかった。
気が気でない私を尻目に、色も認識出来ない彼は、瞳を輝かせていた。
「やっぱりここに来ると気分が良い。
今でも君達と働いた日々を思い出すよ」
「私だって夢に見ますよ。
「その気持ちは痛いほど分かる。夢の中なら君の髪の色まで、綺麗に映し出されるんだ。もう二度と見られない光景だと思うと、目が覚めた瞬間の虚しさが半端じゃないね」
「錬次くん……。
でも生きてる限り、会う事は出来ますから!」
急に遠くを見ながら切なそうにされると、こちらが先に壊れてしまいそうになる。どんなに千智くんを愛していたって、やっぱり錬次くんも大切な人である事に変わりはないから。
「生きてる限り……か。
少し周辺を歩かないか?」
「構いませんけど」
おかしい。さっきまでの彼は、これからの
もしかして、お兄ちゃんの意識に切り替わっているのだろうか。そうは見えないけど、試してみる価値はありそう。
「ねぇお兄ちゃん。
あそこにタピオカのお店できたの知ってる?」
「ん?
あの店は俺が辞める前にはあったぞ?」
「あれ? 錬次くんでしたか。
とりあえず喉乾きましたし、飲み物買いに行きませんか?」
「そうするか。俺は抹茶ラテにしよう」
本人には自覚が無いかもしれないけど、時々二人の意識が混ざっている気がした。今だって、お兄ちゃんと呼んで当然の様に反応したし、今日の彼の言動にいつもの錬次くんらしさが薄い。
私達はタピオカ入りのジュースを買い、大通り側からも大杉店のあるビルを眺めた。
彼はストローを咥えながらも、夢中になってその景色を目に焼き付けている。
「たぶんあの辺りがバックルームで、左に向かうと売り場だよな。そんで奥の方に休憩室と店長室がある」
「そうですね。
外から見てもかなりスペースがあります」
「あそこで俺達は再会したのか。
もっとハッキリ見えればなぁ……」
「やっぱり色が無いと、実感が湧きませんか?」
「あぁ、この世界は悲し過ぎる。少しだけ
「……え?」
寂しげに話す彼からは、左手を差し出された。この手を取って、もし誰かに目撃されたりしたら、私達の関係を疑われるのは必然。前を向いたままこちらに伸ばす腕を、私は黙って眺める事しか出来ない。
そう思っていた矢先に、振り返った彼の笑顔は、溶けてしまいそうなほど儚くて、とても懐かしく思えた。
その表情を見た私は無意識に右手を伸ばし、彼の手の平に重ねている。
「お兄ちゃん……?」
繋がれた私の手には、彼の小指がトントンと二回触れた。錬次くんにはあるはずのない、お兄ちゃん特有の癖。
「一美、約束を守ってやれなくてごめんな。でも最期に、君からたくさんの想いが伝わってきて、本当に嬉しかった。ありがとう。これから先もずっと、千智と幸せにな」
「お兄ちゃん!!」
遺言みたいなセリフを残した彼の腕は、力なくだらんと垂れ下がる。
こちらに笑顔を向けてくれたのは、ほんの一分くらいだったと思うけど、私の心に深く染み込まれていった。
「ありがとう一美。これで確信が持てた……」
「え、ちょっと! 錬次くん⁉︎ 待って!」
握ったままの手は辛うじて繋がっていたが、彼は膝から崩れ落ちてしまう。全身の骨が抜けてしまったように、重力に逆らわず地面に叩きつけられた彼は、頭部と唇から血を流して意識を失った。
私は手を引いて支える事すら出来ていない。
ただ、お兄ちゃんが消えてしまったのは理解していた。
「錬次くん! 起きて!
しっかりしてよ! 死なないで!!」
必死で声を掛けながら体を揺すっても、まるで反応が無い。脈はあるが、呼吸が弱く感じる。
色んな事が重なって混乱している所に、心配して駆け付けてくれた人達が救急車を呼んでくれた。
気付けば自分の目から、大粒の涙がポタポタと落ちている。
「やだよ……。
お兄ちゃんと一緒に、錬次くんまで……」
サイレンの音が近付いた頃には、声を出して泣きじゃくっていた。
そのまま彼の搬送に同行し、病院へと向かう。
救急隊員の物々しい雰囲気とは裏腹に、酸素吸入器を当てられた彼は、安心したみたいに涼しい顔で眠っていた。
病院に着くとすぐさま検査が開始され、私もその時の状況を事細かに説明する。でも彼の異常は何も確認されず、ただただ呼吸と脈拍の弱い状態が続いていた。
慌てて千紗ちゃんに連絡を入れると、まだ仕事が終わっていないのに、すぐに駆け付けてくれた。
駅から走って来たのか、汗をかきながら息を切らしている。
「一美……ちゃん。錬次くんは……⁉︎」
「昨日と同じで、原因不明だって」
「じゃあ……やっぱり、
呼吸を整えるのも忘れて、無理やり声を絞り出している。
そんな千紗ちゃんに対して、私は申し訳なくなっていた。
「お兄ちゃんには少し会えたけど、いなくなっちゃった……。
その直後に錬次くんが倒れて………」
「そっか。
錬次くんは、二色さんに恩返し出来たんだ」
「ごめんね千紗ちゃん。
私は一緒にいたのに、なにも出来なかった」
「一美ちゃんは何も悪くないよ。
彼の無茶に付き合ってくれてありがとね」
彼女は私を一切責めようとはしなかった。ただ錬次くんを信じて待つ。そんな強い目をしていた。
私もくよくよしてる場合ではない。もしさっきの現場を千智くんに目撃されていれば、間違い無く浮気を疑われる。錬次くんが目を覚まさなければ、状況は最悪のまま。
とにかく今は何をするべきか、必死で考えていた。
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