第62話 届き始める新しい未来

 兄貴の呈した可能性には混乱したが、冷静に考えれば嬉しく思えてくる。

 千智ちさとだった頃の俺は、一美ひとみ錬次れんじに裏切られていないかもしれない。

 ずっと結婚記念日を楽しみにしていた妻の姿は、心の底から本心だったのかもしれない。

 そう考えただけで、感涙と共に罪悪感も溢れてきた。

 


「ごめんな一美……。

 辛い別れ方をさせてしまって……」

 


 独り言で謝罪まで述べる俺を、千紗ちさは複雑そうに見ているが、兄貴から鋭い忠告が入る。

 


「まぁ待てよ錬次。

 ここでお前の気持ちが一美ちゃんに向いてしまえば、それが不倫に繋がる可能性もあるだろうが」

 

「悪い、そうだよな。

 まだあくまで推論の一つだったわ」

 

「そーゆーことだ。あぁ、あともう一点。

 結婚記念日の予定は変更させたのか?」

 

「……あーっ!!」

 


 完全に失念していた。自分の日常生活を取り戻す事に必死で、そちらまで思考が回っていなかった。

 もう十二月も半ばに来ているし、すでに予約は済まされている。

 


「マズいマズい! 当日しか頭になかった!」

 

「すぐに連絡入れておけ。

 店の変更くらいならどうとでもなる」

 

「あぁ、とりあえずメッセしとく」

 


 慌てて一美宛にメッセージを送信すると、数分後には返信が届いた。

 その内容を読み、今度は一気に血の気が引く。

 


「やっぱり千智が選んだのは、同じレストランだ」

 

「だろうなぁ。ここだけは確実に変えられる分岐点だし、今すぐ予約を取り消すべきだぞ」

 

「……いや、待ってくれ」

 

「ん? どうしたんだ?」

 


 俺はひたすら記憶を遡ってみた。すると浮気現場を目撃した日の数日前、妻からそれとなく、他の店にも興味があると言われた覚えがある。

 しかし予約したレストランはキャンセル料も発生するので、その店の良さを語って誤魔化した。

 一美を介して変更しようとするルートは、最初から潰されているのかもしれない。

 だとすれば他に方法は……

 


「千智に直接伝える」

 

「錬次くん、それは身に覚えがないの?」

 

「うん。一美に言っても、店の変更は起こらない。俺が千智に対しこの店を酷評して、行く気を削いでしまった方が確実だと思うんだ」

 

「そっか。

 あなたがそう言うなら、きっとそうだよ」

 


 千紗の後押しを受けて、すぐに千智への文面を打ち始めた。

 予約店の料理やワインの味から、全体の雰囲気まで、奴であり自分にとって不満と感じる要素を、有る事無い事詰め込みまくる。

 実際に行ったのは六年前だし、精神的にもそれどころじゃなかったけど、意外と覚えているものだ。

 店名は一美から聞いたと前置き付きで、送信ボタンをタップする。これで運命も変わってくれ。

 


「兄さん、今日は助かったよ」

 

「いや、俺は確認しただけさ。

 不倫すんじゃねーぞ?」

 

「しねーよボケ」

 


 兄貴を見送って完全に日が落ちた頃、一通のメッセージが届いた。

 


壱谷いちたにさんから?」

 

「あぁ。かなり動じてるらしく、他の店探すってさ」

 

「よかったぁ! 

 これで事故は回避出来るよね⁉︎」

 

「帰り道が変われば、あの暴走自動車にも遭遇しないだろ」

 


 これで運命は変わるはず。

 今までとは違い、千智が進む人生に直接介入して変化を起こさせた。

 この手段でも同じ道を辿る道理は無い。


 一週間後、一美からのメッセージに思わず口がほころぶ。

 


「千紗ちゃん、別の店を予約出来たって。場所もかなり離れてるし、もうあの事故現場を通ることはないよ」

 

「やったね錬次くん!

 ここはもう、あなたの経験した世界とは別物だよ!」

 

「長かったぁ……。ようやくここまでこられた」

 

「本人に気付かれないようにって、相当大変だったよね。もううちにいっぱい甘えていいよ!」

 

「もうこれ以上無いくらい甘えてるって」

 


 ホッとした俺と千紗は、心置きなく年越しの準備を始めた。

 正月は俺の負担を考えて、両家の家族がこちらに出向いてくれる。

 その為に必要な物を揃えたり、普段から片付いている部屋をもう少しだけ綺麗にした。


 そして迎えた大晦日。

 千紗と二人で二〇二一年に別れを告げ、ベッドの中で良い初夢を期待した。

 




「錬次。ずいぶんと久しいじゃないか」

 

「……あぁ、久しぶりだな千智」

 

「どうしたんだよ? 

 病人だった俺並みに顔色が悪いぞ?」

 


 二〇二二年、最初に見た夢には、慣れ始めた真っ白な世界と錬次が現れた。

 非常に憂鬱そうな顔を下に向け、重苦しい空気に包まれている。

 一体この男に何があったと言うのか。

 


「もう、時間が残されていないんだ、俺には。たぶんお前も」

 

「そんなの、ずっと前から覚悟はしてる」

 

「なにもしてやれなくて悪いな。

 俺は数日中には消えると思う」

 

「消える? この体からって事か?」

 

二色錬次にしきれんじは本当に死ぬって事だな」

 


 むしろ今まで魂だけみたいになって、この体に残り続けていた方が不自然なんだが。

 それでもここ最近顔を出さなかったし、すでに消えてしまっているかとも思ってた。

 いよいよ限界なのか。

 錬次の精神も、この体も……

 


「体を好き放題使ってしまって悪かったな」

 

「いや、残りの時間も俺の代わりに生きてくれ」

 

「また脳腫瘍が再発したりして、ぽっくりいかなければな」

 

「先の事は分からないけど、まだ少しは保つと思う」

 

「期待はしないでおくよ」

 


 ここ数年間を考えると、気休めにもならない。明日にでも死ぬかもなんて、何度も考えてきた。

 


「これが最期かも知れない。ありがとな千智」

 

「あぁ、こちらこそありがとう錬次。

 この二度目の人生も悪くなかったぞ」

 




 お互いに感謝を告げたところで目が覚める。

 隣で心地良さそうに眠る千紗を見ると、これで充分満たされたような気持ちになった。

 いや、本音を言えば、この寝顔を永遠に見ていたい。

 

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