第36話 全て背負い込むとしても

 ちょうど一年前のこの時期、大学の課題に追われていた一美ひとみは露骨に様子がおかしくなり、俺が下手な慰めを挟みに行って余計に距離が遠くなった。それでも月末付近には千紗ちさに救われて交際をスタートさせる等、俺達の関係性が大きく変わった時期でもある。

 それから一年が経過して更なる進展も多い中、変えられないものに行ったり来たりを繰り返すのは俺だけだ。

 記憶として保存されている過去はどうあっても変わりはしない。だからこそ不意に舞い戻ってくる悲しみや苦痛は、同じ時間を過ごした仲間に零したりして、お互いにぬぐい合いながら前に進んでいくもの。

 しかし俺には笑い飛ばしてくれるほど共有出来る相手がいない。どれだけ上から別の想いを塗り重ねたところで、消化もされなければ痛みが和らぐ日も来ない。ただ押し込まれていく時間をやり過ごすだけだ。

 


「おーい浜倉くん、こっちの売り場整備も手伝ってくれ」

 

「わかりました壱谷いちたにさん」

 


 あの白百合さゆりでさえ変化している。

 人と接する事は不得意でも、洋服が好きだと言って選んだこの仕事は、彼自身を大きく成長させた。

 綺麗に服を並べる喜びをもっと得られる為に、他の人間と協力する重要性を覚えた。

 その一点のみに特化した彼は、少しの変革によってたちまち評価と存在感を増している。

 


「何かあったんですか二色にしきさん。

 ボーっとしてますけど」

 


 仕事に身が入らないまま休憩室で水を飲んでいると、珍しく白百合の方から声を掛けてきた。

 いつも無表情で何考えてるか分からん奴に、その指摘を受けるのもどうかと思うが。

 


「すまんな。

 誰にも理解されない悩みにどう向き合うべきか考えてるだけだ」

 

「そんなの考える必要あるんですか?」

 


 不思議そうに首を傾げられるが、俺の方が不思議だ。

 


「いや、だって考えないと解決しないだろ?」

 

「理解を求めなきゃいいじゃないですか。

 自分の悩みも感情も自分にしか分からないんですから」

 


 正直驚いている。

 こいつがこんなによく喋ってるからではない。確かに俺は理解を得られない事に悶々としているが、それすら不要だと切り捨てる斜め上の解決案と、その根拠をハッキリ提示されている状況が予想を超えているからだ。

 


「白百合にもそういう経験があるのか?」

 

「僕は別に分かってもらおうとしてないので」

 

「そう言わずに教えてくれよ。

 これまでのミスはチャラにしてやるから」

 

「なんで二色さんに許されなきゃいけないんですか……」

 


 深くため息を吐いた白百合は、嫌々ながらもゆっくりと話し出した。

 


「僕はよくこの名前を可哀想みたいに思われます。

 それがすごく嫌でした」

 

「女の子みたいだからか?」

 

「そうでしょうね。

 でもこの名前は白百合しらゆりの花が大好きなお母さんが、僕に愛情込めて付けてくれた名前です。

 だから僕はこの名前が大好きなんですよ」

 


 好きなものを憐れみの目で見られるとは中々の葛藤だな。

 それを気にせず好きだと言い張れるこいつのメンタルも凄いが。

 


「僕がどんなに名前やお母さんが好きでも、その感情は僕だけのものです。

 他人には分かったフリは出来ても、本心からの理解なんて得られません。

 だから求めるのも辞めました」

 

「変なところで達観してるんだな」

 

「余計なお世話です」

 

「でもなんか気が楽になったわ。ありがとな」

 


 妻と過ごした幸せな日々も、あの日知る事の出来なかった浮気の真相も、この世界ではまだ始まってもいない夢物語。それが不意に身近に感じてしまうこの気持ちは、本当の意味で理解される事などあるはずがない。

 だが忘れ去ろうとしたり、上塗りで誤魔化したりしなくても良いじゃないか。

 時々胸を突き刺す痛みに命を落としたりはしないし、寄り添って支えてくれる彼女だっている。

 抱えたまま歩き続ければいい。

 


「それはそうと、二色さんと千紗さんてどんな関係ですか?」

 

「ん? 千紗ちゃんは俺の彼女。

 誰にも言うなよ」

 

「やっぱりそうなんですか」

 

「やっぱりそうなんですよ」

 

「二色さんってイラッとしますね」

 


 思わぬ人物に発破はっぱをかけられて持ち直した俺は、さっきまでのお粗末な仕事を取り返すべく、気合を入れて業務に励んだ。

 夢中になって商品と売り場を準備し、積極的な声掛けでお客さんを喜ばせる瞬間は、何よりも満たされた気持ちになる。

 解決しない問題にいつまでも悩むよりよっぽど有意義だし、今までだってこうして乗り切ってきたじゃないか。

 


「なんだよ錬次れんじ、調子良さそうじゃん」

 

千智ちさとこそニヤけて間抜け面になってんぞ。

 なんかあったのか?」

 

「いや最近一美が俺の呼び方変えてさ。

 それだけで結構気分も変わるもんだな!」

 


 喜びを隠し切れないといった様子の千智の顔は、清々しい程の無邪気さに溢れていた。

 昔の俺はこんなにも単純で、分かりやすく恋愛脳を持て余していたんだな。

 


「そりゃ好きな子との距離が近付けば、変わらない方がおかしいだろ」

 

「そうなんだろうけどよー、まともな恋愛なんて高校の時の一回切りだからさ、久しぶりの感覚でピンと来ないんだよ」

 


 あー、あの卒業後二ヶ月で振られたあれな。

 もう思い出しても何とも思わないし、一美と過ごした日々が全て帳消しにしてくれたよ。

 


「お前がそんだけ幸せそうなら、一美も嬉しいだろうな」

 

「本当にそうなのか? 

 あの子は錬次に接してる時のが心開いてる気がすんだけど」

 

「前にも言ったけど、俺とあいつはほとんど兄妹だよ。

 確かに仲は良いけど、緊張感の生まれない関係じゃ恋愛感情も動かない。

 お前が気を回す必要なんて一ミリも無いって」

 


 今の言葉はたぶん嘘だ。

 妻の面影を見ている内は、完全に割り切れてるなんて腐っても言えない。

 それでも譲りたくない思い出があるし、裏切り者にならないという決心もある。

 それだけが俺の虚勢を支え、二人の応援へと繋げている。


 仕事後に乗った電車の中で、吊り革に掴まる千智の姿はどこか思い悩んで見えた。

 まだ一美と俺の関係性について気にしているのかと思ったが、どうやら取り越し苦労だったらしい。

 


「なぁ錬次、俺告るわ」

 

「へぇ、誰に?」

 

「決まってんだろ。

 俺が好きなのは一美だけだ」

 


 我ながらキザなセリフで鼻で笑ってしまうが、言い切って決意に満ちた表情を見せるこいつは、これから順調に前に進み続ける。

 俺は俺にしか出来ない事に全力で取り組んでいこう。

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