第五章 導かれたこの世界で導く覚悟と繋ぐ意志

第35話 呪いにも似た俺と彼女の幸福

「あっつい。マジであっちぃ」

 

千智ちさと先輩、口に虫が入りますよ!」

 

「いや本当に暑過ぎだろ……。

 熱帯夜とかいらねぇよ」

 

錬次れんじ先輩、せっかくのイケメンが台無しです」

 


 梅雨明けから徐々に上がっていた気温は、七月に入った途端狂ったように急上昇し、空調に管理された店から出るのが酷く億劫になった。

 辺りは真っ暗なのにせみの声は鳴り止まないし、六月以上に空気はべっとりとまとわり付くしで、仕事で擦り減らした体力を根こそぎ収奪されそうな蒸し暑さ。

 こんな中でもエネルギーに満ちた一美ひとみは、単に若さ故というわけでもなさそうだ。

 


「今日は千智先輩は用事あるんでしたっけ?」

 

「あぁ悪りぃ、昔のダチと約束しててさ」

 

「錬次先輩は?」

 

「俺は家に帰って寝る予定が……」

 

「じゃあ二人でご飯行きますか!」

 


 理由はよく分からないが彼女は最近また機嫌が良く、俺の腕を確保すると強引に飲食店が並ぶ通りまで連行する。しかも立ち止まった目先にあるのは、何故か個室の居酒屋だ。

 取り調べを受けなきゃならん罪を犯したつもりは無いが。

 


「あの、まさかここに入るの?」

 

「はい!

 ちょっと内密にお話ししたい事がございまして!」

 

「いやでもなぁ……」

 


 別に金銭的に苦しいわけではないが、無駄に高い席料とお通し代を払うくらいなら、そこら辺の牛丼屋で簡単に済ませたい気分なんだが。

 しかし手を合わせて何度もペコペコしている彼女を見ると、どうやら事情くらいはあるらしい。

 


千紗ちさちゃんにメッセする」

 

「あ、はい。それはもちろんどうぞ」

 


 早く室内に入りたいところだが、事後報告で誤解を受けるのもごめんだ。

 メッセージはすぐに既読となり、『一美ちゃんに変な事しないでね』と念押し付きの許可が降りたので、エアコンの効いた落ち着きのある空間に足を踏み入れた。

 案内された和風の個室は炬燵ごたつになっていて、疲れた体にもそれなりに優しい。

 


「そんで、内密な話しとは?」

 

「それより先輩、あれから白百合さゆりくんとはどうですか?」

 

「白百合? 

 俺に対してはそんなに変わらないけど、千紗ちゃんからは少し離れたかな。

 それでもまだ結構近いから気に食わん」

 

「あー、やっぱり怖がられてますねー! 

 私には時々仕事内容聞きに来ますよ!」

 

「そうかい。そりゃなによりだな」

 


 優先度の低い世間話しか出ないまま、テーブルには酒とつまみが次々に並んでいく。

 俺は記憶を掘り返して心当たりを探ってみた。

 


「千智とのデートつまらなかったのか?」

 

「とんでもない! すっごく楽しかったですよ! 

 ってあれ? 

 二人で遊んだって言いましたっけ?」

 

「俺を誰だと思ってるんでしょうかね」

 

「あ、そっか。

 先輩も私とデートしてたんですもんね」

 


 その言い方だとおかしな誤解を招きそうだが、素直に嬉しそうにされるとこちらはかなり照れ臭い。

 確かこの時期までに二回は二人で出掛けてるはずだが、反応的に悩みは無さそう。

 この話題でも釣れないとなると、折り入って話す内容など他に思い付かないのだが。

 


「千智に関する話しじゃないのか?」

 

「いえ、千智先輩の話しです」

 

「あのヘタレが少し鬱陶しくなってきたとか?」

 

「全然そんな事ないです! むしろ逆です!」

 

「逆?」

 


 一度大きく身を乗り出した一美は、ゆっくりと元の姿勢に戻る。

 


「千智先輩は一緒に居て楽しいですし、最近では一生懸命私を大切にしてくれて、なんだか頼もしく感じてます」

 

「水族館の時もらしくなかったもんな」

 

「あれもそうですね。すごくドキドキしました。

 錬次先輩は良いお兄さんですが、千智先輩は同じ目線で話せる大切な人なんです。

 いつも私だけを見てくれます」

 


 少し照れ笑いを交えながら話す一美は、とても幸せそうで心から嬉しくなった。

 俺が辿った道とは変わらないのだろうが、こうして別の視点で見ると改めて広がる景色も多い。

 


「良かったじゃないか。

 あいつも聞いてたらぶっ倒れるぞ」

 

「じゃあいつ告白してくれるんですか⁉︎」

 

「いや俺には千紗ちゃんという素敵な彼女が……」

 

「もう誤魔化さないで下さい!」

 


 というか俺が未来の千智だとは認めたが、一美との関係性について一切打ち明けてないんだけど。また何か見ていて気付いたのか、それとも千智からそれっぽい雰囲気でも出されたか?

 


「先輩が私とただの友達じゃなかった事くらい分かりますよ。

 私に対して面倒見良過ぎですし、私の事に最初から詳しかったですから」

 

「ま、まぁ詳しいけど、それは今の千智だってそこそこだろ?」

 

「普通顔色見ただけで機嫌の良し悪しを正確に判断したり、メイクの違いに気付いたり出来ませんよ。

 よっぽど親しい仲じゃないと」

 


 そう言われると返す言葉も無い。出会ってそんなに経ってないうちから、それを察知して対応まで変えてたんだから、彼女視点でも特別扱いされているのは見え見えだったのだろう。

 


「でも告白のタイミングは言えないな」

 

「なんでですか? 

 私もう意識し過ぎて頭が変になりそうなんですよ!」

 

「それでもダメだ。

 これは千智自身が悩んで決める問題だし、俺の介入で上手くいかなくなっても困る」

 


 言ってる間に思い出したが、今日千智が会ってる昔の友人は、恋愛相談の為に呼び出した学生時代の親友だ。

 奇遇にも同じタイミングで同じ相談をしてるって事は、手を貸さなくてもこの二人は上手くいく。むしろ余計な助け船は不要なのだ。

 


「むぅ、先輩のせいでもっとモヤモヤします」

 

「ならばヒントだけはほどこそう」

 

「ホントですか⁉︎ ぜひお恵み下さい!」

 

「君付けで呼んでみるといい。

 グッと距離が近付くぞ」

 

「……千智くん?」

 


 酒を運ぶ手が停止した。

 もう逢う事のない懐かしき妻の姿が目に映り、重ねまいと気持ちを切り替えようにも心が追いつかない。

 ずっと愛していた人と顔も声も同じままで、俺の目を見ながら俺の名前を呼んでいる。

 忘れたはずの想いが蘇った瞬間が、こんなにも苦しいものだなんて。

 本当に胸が張り裂けそうだ……

 


「先輩、どうしたんですか⁉︎ 

 なんで泣いてるんですか⁉︎」

 


 零れ落ちる涙には何の意味も無く、ついさっき焼き付いてしまった光景をまるで流そうとしてくれない。

 目の前の一美は妻ではないのに、心臓が勝手に手を伸ばそうとしている。

 


「すまん、トイレ行ってくる」

 

「え、大丈夫ですか?」

 


 逃げ出すようにトイレに駆け込んだ。

 どうせ周りは酔っ払いだらけだし、多少泣きながら彷徨うろついても気にする必要はない。

 個室に籠った俺は頭から妻の虚像が離れるのを待った。

 涙は止まらないが声だけはこらえ続けた。

 自分で地雷を踏み抜いておいて、本当に何をやってるんだか。

 我ながら女々しくて情けない。

 

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