第32話 側から見ると微笑ま恥ずかしい

 イルカショーと言えば透明度の高い巨大水槽から、上に吊るされた輪っかやボールに向かってイルカが跳んだり、はたまた人を乗せて遊泳する芸を楽しむものが想像されるだろう。

 しかしあろうことかこの水族館のショー会場入り口付近では、白くて簡素な雨ガッパが叩き売りの如く販売されている。

 会場が外にあり雨が降っているからだろうか。

 


「それは水槽から水飛沫みずしぶきが飛ぶからですよ」

 

「そうなの千紗ちさちゃん⁉︎」

 


 思わず素で返してしまった。

 いやそんな事だろうと予想はしてたよ? 

 知らないふりして驚いた方がみんな喜ぶからさ。

 


錬次れんじ先輩知らなかったんですかぁ?」

 

「なにニヤニヤしてるんだよ一美ひとみ

 後ろを見てみろ」

 


 同様に理由が分からずポカンとする昔の俺がそこには居た。

 段々とこの辺の記憶が薄れた理由も分かり始めてきたぞ。

 


千智ちさと先輩も知らなかったんですね!

 でもこんなの要らないんで、ずぶ濡れになりましょー!」

 


 先頭に立って突き進む一美は、千智の腕を掴み連れ去って行く。

 俺はこっそりとカッパを二つ購入し、千紗に手渡した。

 


「え、うちらの分だけなの?」

 

「大丈夫。

 一美に渡したところで使わないから」

 

壱谷いちたにさんは?」

 

「あいつには一美の犠牲になってもらおう」

 


 暗い室内から開かれた扉を潜り抜けると、とんでもない広さの円形プールがまず目に入る。そこは屋外だが客席とプールを囲う形で屋根があり、映画館のようにイルカを見下ろせる造りだった。

 ショーの開始時間にはまだ余裕があるが、すでに空席は探さなければ見付からない混雑具合で、ちゃっかり前の方に陣取っている一美達より少し後方に腰を据える。

 


「この辺なら水も届かないかもね」

 

「確かに。でも俺は一応着とくよ」

 

「じゃあうちも!」

 


 カッパも着込み戦闘態勢で迎えたショーは、早速イルカから観客への冷たい洗礼で始まった。

 手前側で繰り返されるジャンプは、水飛沫と言うより波のように水槽から水を押し寄せ、最前列で見ている人々は雨除けの装備などあっさり貫通されている。三列目の一美達には前の席が防波堤となっているが、それもいつ決壊することやら。

 それにしても千紗までだいぶ興奮しているご様子で、今にも立ち上がって声援でも送り始めそうだ。

 


「ねぇ見て錬次くん! すごいねあれ!」

 

「うん、見てる見てる」

 

「どうやってあんなに高く跳んでるの⁉︎」

 

「え、うーん、俺イルカじゃないからなぁ」

 

「すごーい! ちゃんと指示通り動いてるよ!

 イルカって賢いんだねぇ!」

 

「そうだねー。

 指示出しても動かない人間もいるからね」

 


 若干ムッとした顔をされたが、彼女がこんなにはしゃいでる姿は初めて見た。まぁ二十代になって序盤の女の子なんて、本質的には女子高生と大差無いのだろう。

 多少はこの席まで水も飛んできたが、終わってみれば服に掛かっていてもすぐ乾きそうな度合いだった。

 案の定近場に構えた一美達は髪の毛までびっしょりで、千智に至っては半分放心状態になっている。

 


「錬次先輩! 先に行ってますよー!」

 


 下から大声を出す一美に手を振り、二人が歩き始めたところで再び追跡を行った。

 一斉に室内に向けて侵攻する人波は、通勤ラッシュよりいくらかマシなぐらいで、決して動き易いとは言えない。

 外気は生ぬるいが濡れた体だと冷えるし、あえて止めずに進ませた。

 横で見つめる千紗はだいぶ心配そうな様子だが。

 


「すごく混んでるけど大丈夫かな?」

 

「そこは千智がなんとかするよ。

 千紗ちゃんも危ないから、ちゃんと俺の腕にしがみついてて」

 

「う、うん……」

 


 この場面だけはよく覚えている。個人的に忘れられない出来事だったので、むしろその前後の記憶の方が抜けていた。


 二人は両端から我先にと進む人波に押し流され、通路の真ん中付近へと徐々に追いやられていく。

 体格の良い千智は多少どつかれても平気だが、右側を歩く一美にはしんどいだろう。

 俺の隣を歩く千紗も腕に掴まる力が強くなり、女性にとってどれほど過酷なのか身に染みてくる。

 


「いたっ!」

 


 狭い通路は中間付近に差し掛かると更に詰まり始め、一美は注意を払って歩を進める。

 しかし強引に右端をすり抜ける男に肩を当てられてしまい、大きくバランスを崩してあわや転倒寸前。それを瞬時に反応した千智が、小さな体を自身の懐で受け止めた。

 千智の腕の中にすっぽりと埋まった一美は、耳まで真っ赤に染まって目が泳いでいる。

 見ているこちらまで顔が熱い。

 


「大丈夫か⁉︎ どこか痛めてないよな⁉︎」

 

「はい、大丈夫です。すみません……」


「ったく、あんな追い抜き方しなくてもいいだろうが」

 


 しおらしくなった一美は、自分からは全く離れようとしない。むしろ動きたくても動けないようにも見える。

 千智もぶつかってきた男の方を睨むが、その横顔からは湯気が見えそうだ。

 


「と、とりあえず俺の腕に掴まっておけ。

 また倒れそうになっても支えてるから」

 

「は、はい……」

 


 太い右腕を差し出された一美は、全身で抱きつくようにしがみついている。

 千智は緊張のあまり歩き方までぎこちなくなるが、その光景を傍観者として眺める分にはなかなか面白い。

 


「一美ちゃん必死でくっついてて可愛い」

 

「なんだかんだラブコメやってんだよなあいつら」

 

「錬次くんはこの状況を作ろうとしてたんだね」

 

「結構なターニングポイントだよこれ」

 

「ヘタレがマシになる転機だったってこと?」

 

「やっぱヘタレだと思ってるんだ……」

 


 背後から見てもハッキリ分かる二人の固くなった動きは、ようやく一歩踏み出そうと必死にもがいている。元居た売店付近に戻ってもまだ続いていて、思わず吹き出しそうだった。

 


「千智、ちゃんと一美のおり出来てるみたいだな」

 

「はぁ? か、からかうなよ!」

 

「からかってねぇよ。

 その子を支えるのがお前の役目だ」

 

「なんだよそれ。そんなのお前だって……」

 


 一美はそれでも腕を離さなかった。彼女の中で何か変化が起きている。それは間違い無さそうだと思ったのだが、どうも緊張のあまり硬直していただけらしい。突然我に返った小動物のように顔を上げる。

 


「あ! す、すみません、もう大丈夫です!」

 

「お、おう。体痛くなってないか?」

 

「はい! この通りしっかり動かせます!」

 


 まるでラジオ体操でもしてるみたいな動きだが、実に彼女らしい主張の仕方で、俺を含めた三人は笑が止まらなかった。

 ようやく落ち着きを取り戻し残りのエリアを回るが、一美達は上手くやれそうなので観察も辞めにした。見守りたい気持ちもあるが、俺自身にそこまでお節介を焼かれた覚えがない。ここから先は彼らで好きなようにするだろう。

 


「錬次くん、妹を取られて少し寂しい?」

 

「いや、むしろ嬉しいよ。

 もう少しすればあいつらは二人でも遊びに行くようになるし、ちゃんと同じ未来に向かってる」

 

「そっか。

 じゃあうちらも二人でデートしようね」

 

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