第24話 一美と錬次

 私はどうしようもなく臆病な子どもだった。

 保育園では園児の大きな声に驚き、すべり台の高さに尻込みし、ブランコの不安定さに怯えてばかり。

 周りの子に合わせて遊ぶよりも、一人で本を読んでる時間が気楽に思えた。

 

 そんな当時の私にも、遊んでくれる友達が二人いた。

 保育園が終わった後には、時々だけど三人で近所の公園に向かう仲。

 みんなでお気に入りのぬいぐるみを持ち寄って、おままごとをする時間は楽しかった。

 だけどある日、幼い私の心をへし折ってしまう事件が起こる。

 

 公園のベンチに座って、大好きなうさぎのぬいぐるみを使いおままごとをしていると、知らない小学生達が公園にやってきた。

 私はすぐに胸のざわつきを覚えるが、二人の友達はあまり気にならないらしい。自分達の遊びを続けていた。

 


「おい、オレたちがここで遊ぶんだからどっか行けよ!」

 


 突然怒鳴られた私は、恐怖のあまり耳を塞ぐ。

 さすがに一緒に居た子達も驚いた様子だった。

 


「私達もここで遊んでるの! 

 ここはみんなの公園でしょ?」

 


 気が強い子が一人で小学生に立ち向かった。

 だけど所詮は五歳の少女。小学生男児が聞く耳を持つわけもない。

 事態は悪化してしまう。

 


「うるせえよ! 

 こんなもんで遊ぶなら家でもいいだろ!」

 


 男の子が乱暴に掴んだのは、私の大切なぬいぐるみだ。

 


「返して! その子は大事なの!」

 


 私は必死だった。ぬいぐるみの腕と耳を、絶対離さないように強く握った。しかし体格の違う小学生の力に敵うはずもない。

 


「うわ、ちぎれた! 

 こいつらうぜーしほかのとこ行こうぜ」

 


 無惨な姿だった。

 うさぎから片腕と耳が無くなり、中から白い綿が見えている。床に落とされた体は砂まみれ。

 一緒にいた二人はいつの間にか逃げており、公園に残ったのは私とバラバラのぬいぐるみだけ。

 大好きなおばあちゃんが買ってくれた一番の宝物だった。


 私はぬいぐるみを抱きしめ、ベンチに座って泣いた。泣いて元に戻るなんて思ってなかったけど、落ち着いてもすぐにまた涙が溢れてくる。

 しばらく独りでその場にいると、泣き声を聞き付けたのか、別の小学生がやって来た。また嫌な事をされるかと身構えるが、その少年は心配そうに近付いて来る。

 


「あー、壊れちゃったのか。

 帰ってお家の人に直してもらえないの?」

 

「この子見たらおばあちゃんが悲しむ……」

 


 私のひと言で、少年は全てを察したみたいだった。

 


「そっか。それじゃこのまま帰れないな。

 ちゃんとは直らないと思うけど、俺がなんとかしてみるよ。

 うちにおいで」

 


 そう話した少年は、私に手を差し伸べる。

 洋服で涙を拭いた私はその少年の手を握り、彼に連れられて大きな木造の一軒家に到着した。

 


「この裁縫道具でその子を治療するからな」

 


 家族はみんな出掛けているようで、少年は自分でお裁縫セットを引っ張り出し、つたない手付きだが慎重に縫い始める。

 少しずつ繋がっていくぬいぐるみを見て、私はすごく興奮していた。少年をまるでお医者さんみたいに感じていたと思う。

 


「ごめんな。今の俺の腕じゃこれが精一杯だ」

 

「すごーい! ありがとうお兄ちゃん!」

 


 縫い目は隙間だらけでチグハグだし、中の綿も少しはみ出している。

 でも私は心の底から嬉しかった。

 


「お兄ちゃん、また遊びに来てもいーい?」

 


 しばらく遊んだ後で玄関から外に出ると、来る時は気が付かなかったが、家から公園よりも近い場所だと分かった。

 この少年の穏やかな雰囲気は心地良い。すごく優しい人。幼心にそう感じた私は、そこで別れるのが寂しかった。

 


「おう、いつでも来ていいぞ。

 あと俺は錬次れんじな。二色錬次にしきれんじ

 

「じゃあ明日も来るねー!」

 

「それはいいけど、君の名前は?」

 


 名乗るのも忘れるほど明日が楽しみになっていた。

 それから毎日のようにお兄ちゃんの家に遊びに行くが、彼は嫌な顔ひとつせず遊んでくれる。

 三歳も年下の女の子と遊ぶのなんて、お兄ちゃんにとっては退屈ばかりなはずなのに。

 


「おー一美ひとみちゃん、また来たのか。

 何して遊ぶ?」

 

「かくれんぼー!」

 


 一年が経ち、小学生になった私は、四年生の錬次お兄ちゃんと毎朝一緒に登校していた。放課後には相変わらず家にお邪魔するし、四六時中一緒に居たような気もする。

 お兄ちゃんと遊び始めてからは怖いものが減り、楽しいものがどんどん増えていく。それが何よりも嬉しかった。

 


「なぁ一美ちゃん、俺とばっかり遊んでていいのか? 

 同い年の友達とも遊べば、もっと楽しいかもよ?」

 

「えー、お兄ちゃんとじゃダメ? 

 私はお兄ちゃんと一緒が一番楽しい」

 


 本当にべったりだったので、何度か他の子と遊ぶ提案もされた。当然お兄ちゃんには他にも友達がいる。

 でも私は学校の休み時間以外で遊ぶなら、お兄ちゃんしかいないと思っていたぐらいだ。

 


「そんなに俺と一緒に居たら、将来俺のお嫁さんにならないと生きていけなくなっちゃうぞ?」

 


 お兄ちゃんはもちろん冗談で言っていた。でも恋愛感情など知らなかった私は、お嫁さんになればずっと一緒に居られるのだと、そこだけに意識が向いていたのかもしれない。

 


「じゃあ私、お兄ちゃんのお嫁さんになるー!」

 


 ものすごく軽い返答でお兄ちゃんも少し困っていたが、私はひとりで勝手にはしゃいでいた。この宣言の意味も徐々に知っていくが、私の意思はまるで変わらない。二年生になる頃には、本気でお兄ちゃんと結婚するつもりだった。

 誕生日もバレンタインも、お母さんに作り方を教わりながら、お兄ちゃんを想って一生懸命お菓子を手作りして渡す。それを美味しく食べてもらえて、心から幸せを感じていた。

 


「ねぇお兄ちゃん、私のことお嫁さんにしてくれるよね?」

 

「んー、まぁ、一美が大人になっても俺を好きでいたら、お嫁さんになってもらおうかな」

 


 しかし私が三年生で迎えた秋、お父さんの転勤が決まった。

 それまですぐ近くで暮らしてたから毎日のようにお兄ちゃんとも会えたが、これからはほとんど会えなくなる。それを理解した瞬間には、私の足はお兄ちゃんの下に駆け出していた。

 


「錬次お兄ちゃん……」

 


 涙でぐしゃぐしゃだった私を見て、お兄ちゃんもすぐに異変に気付いたのだろう。何も言わずに抱きしめてくれた。

 六年生のお兄ちゃんの体は私よりもずっと大きくて、とても安心感があった。

 でもこうして触れ合えるのもあと僅かだと実感させ、ますます悲しみが溢れてくる。

 


「どうしたんだよ一美。

 何がそんなに悲しいんだ?」

 

「私、遠くに引っ越すんだって。

 もうお兄ちゃんと会えない」

 


 わんわん泣いている私の言葉も、お兄ちゃんはちゃんと聞き取ってくれていた。

 私の頭を優しく撫でた後、目線を合わせるようにしゃがみ込む。

 そしてお兄ちゃんは少し涙目になりながらも、穏やかな表情で私に言い聞かせた。

 


「大丈夫、きっとまた会えるから。

 一美がどこかで泣いてたら、また俺が見付けに行くから」

 


 初めて公園で出会った時も、私はひとりきりで泣いていた。見付けてもらったその日から泣く事が減り、楽しい事が増えていった。それは全部お兄ちゃんのおかげ。私の世界を広げて、明るくて元気な女の子にしてくれたのがお兄ちゃん。

 お互い小学生の子ども同士でも、そこには確かに愛情があった。

 

 引っ越し当日。

 その日ももちろんお兄ちゃんに会いに行った。

 両家の親が別れの挨拶を交わしている間、私はお兄ちゃんの部屋に連れられる。

 


「一美、まだ俺のお嫁さんになりたいと思うか?」

 

「うん、私は錬次お兄ちゃんのお嫁さんになって、ずっと一緒に暮らしたい‼︎」

 


 私の顔からは床に滴り落ちるほど、大粒の涙が溢れていた。

 


「そうか。ちょっと待ってろ」

 


 お兄ちゃんは突然机の引き出しを開け、紙とボールペンを取り出す。その時すでにお兄ちゃんの啜り泣くような声が聞こえていた。

 机に叩き付けた紙に必死になって何かを書いている。唸るような泣き声が部屋中に響き、机にはどんどん涙の水溜りができていく。でもお兄ちゃんは一心不乱に書き続けた。

 


「これ! 一美をお嫁さんにする約束だ! 

 俺はこの缶の中に入れてずっと大切にしまっておく。

 だからもう一枚は一美が持っていてくれ!」

 


 その紙は所々読めないほど滲んでいたが、嬉しさと悲しさで涙が止まらず、さらにインクの色をぼやけさせる。

 私は首に掛けていたロケットペンダントを手に取り、お兄ちゃんが書いた約束の手紙を丁寧に折り畳んでしまった。

 


「おばあちゃんにもらった大切なペンダントなの。

 これに入れてずっと持ってるから! 

 お兄ちゃんだと思ってずっと大事にするから!」

 


 お兄ちゃんは濡れて透けるほど、止まらない涙を袖で拭いている。それでもペンダントを見て嬉しそうにしていた。

 


「一美と一緒にいられて、本当に楽しかった。

 ありがとな。

 一美のことは一生忘れない。

 忘れられないくらい大好きだから」

 


 最後に見たお兄ちゃんの笑顔は、すごく必死な作り笑いだった。でも私の為に悲しい気持ちを押し殺して、別れの時まで笑いかけてくれたのが本当に嬉しかった。

 


「私も錬次お兄ちゃんが大好き。

 大人になったらお嫁さんにしてね。

 約束だよ!」

 

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