第21話 修羅場が去ってまた困難

一美ひとみちゃん……そんなのひどいよ………」

 


 不意打ちとはいえ千紗ちさの見ている目の前で、一美のキスを受け入れてしまっていた。全ての事情を理解している千紗にとって、これがどれほど酷い仕打ちかなんて、少し考えれば分かるはずなのに。俺は本当に最低な事をしてしまったんだ……


 凍えるような寒空の下、顔を抑えて泣いている千紗から一美に、そしてきっと俺にも向けられた言葉。それはあまりにも悲しく、心が抉られるほど切なくて、冷え切った肌に容赦なく突き刺さる。



「岸田さん。

 私と同じ痛み、分かってくれましたか?」

 


 無慈悲にも追い討ちをかけるようなセリフだが、言ってる本人の泣き顔には微塵も優越感など出ていない。

 


「そんなの分かんないよ‼︎ 

 分かるわけない、同じじゃないよ! 

 一美ちゃんの痛みとうちの痛みは全然違うよ‼︎」

 


 相手は前世の妻、自分はこちらでの恋人。その違いを知る千紗にとっては、受ける影響に差があるのも当然だ。

 しかしそれを直接伝えるわけにもいかず、彼女は抱えたままで必死に耐えている。



「何が違うんですか? 

 大切な人を先に奪って、私を苦しめたのは岸田さんじゃないですか。

 幼馴染だって知ってたら、お兄ちゃんから身を引いてくれたんですか?」

 

「そうじゃないよ! 

 大好きな人のそばに居たいって気持ちは同じでも、一美ちゃんのやり方はずるいよ!

 過去の思い出に縛り付けて今の彼を引きずり込むなら、最初からうちに勝ち目なんてないじゃない……!」

 


 歯を食いしばりながら敗北感に打ちひしがれるように、膝をついた千紗は泣き崩れる。もし俺が一美を拒めていれば、こんなに悲しい涙は見なくて済んだのだろう。転生後に一番近くで支えてくれた彼女を、自分の失態でひどく傷付けてしまった。

 


「じゃあ私はどうすれば良かったんですか⁉︎ 

 思い出されても結局あなたより後回しにされて、この約束が無いと先にも進めない私は‼︎」

 


 なんでこんな事になった……?

 あんなに仲の良かった二人が、お互いボロボロになりながら傷付け合っている。

 しかもその中心に居る俺は、あまりにも無力で情けない。

 救いを求める二人に対して残酷にも溝を深める事でしか、この争いに終止符を打てないのだから。

 


「もうやめてくれ。

 これ以上千紗の心を痛め付けないでくれ!」

 


 精一杯の気力を振り絞って放った言葉は、まるで自分自身にも訴えかけるように、熱くなる彼女達に割り込んで制止させた。

 二人は似たような表情で硬直しているが、直後にこぼれ落ちた涙の色は正反対だ。

 


「なんで……なんでよ‼︎ 

 お兄ちゃんは全部思い出してくれたから、また昔みたいに接してくれたんじゃないの⁉︎ 

 なんで約束破って岸田さんを守るの⁉︎」

 

「詳しい事は今は言えない。

 だが一美に相応しいのは俺じゃないんだ。

 そして俺には千紗が必要だし、千紗の事が本気で好きなんだよ!」

 


 初めてハッキリ言えた気がする。

 今までも好意的な態度は示してきたつもりだが、好きという単語の前には必ず妻の姿が浮かんでいた。

 だが傷付く千紗を見た時どうしようもなく自分に嫌気が差し、同時に彼女という存在の大きさを感じた。

 気付いた時には一美の前で宣言していて、何故だか少し安堵あんどしている。

 


「嘘つき………。

 全然意味が分かんないよ‼︎」

 


 項垂うなだれるように下を向いていた一美は、ワナワナと体を震わせた後、罵声を浴びせる勢いで言い放った。しかしその言葉はただやるせないだけで、涙を置いて走り去る彼女を追う資格なんて俺には無い。

 哀愁漂う小さな背中は、あっという間に闇夜に飲まれていった。

 


「ごめんな一美。

 いつかちゃんと話すから」

 


 届くはずもない返答をしたところで、気休めにもならない。だけど声に出さずにはいられなかった。

 一美の影の行く先を目で追っていると、不意に何かがコツンと背中に当たる。

 そのぬくもりはうつむく千紗の頭だった。

 


「浮気者……」

 


 普段より低いトーンだったその声は、さっきまでの不安と苦しみを一語の中に凝縮し、生々しく表現している。

 一美の想いに揺れ動いた時点で、確かに俺は浮気者だ……。

 


「本当にごめん千紗ちゃん。

 君の気が済むなら、殴るなりなんなりしてくれて構わない」

 

「……じゃあこっち向いて」

 


 そう言って頭を離されたので、俺は引っ叩かれる覚悟で体を回した。

 彼女は顔も上げようとせず、ものすごく怒っている様子なので、何も言わずに目だけをぎゅっとつむる。

 


「んっ⁉︎」

 


 ビンタか腹パンが来ると思ったのだが、彼女の制裁は全く想定外の行動だった。

 


「な、なんでお仕置きがキスなの⁉︎」

 

「上書き。

 錬次れんじくんの唇に触れて良いのはうちだけだから」

 


 拗ねたような顔で言った彼女は、ついさっきの行為も相まって、とんでもない破壊力の可愛さだ。

 思わず抱きしめたくなるが、裏切ってしまった手前、今回は泣く泣く自重する。

 


「やっぱり千紗ちゃんには敵わないな。

 でも今日は辛い思いさせちゃって本当にごめん。

 これからは誠意を示すよ」

 

「うちも一美ちゃんが何か行動に出るかもとは思ってたし、あなたの事情はよく理解してるから大丈夫。

 それより心配なのは一美ちゃんだよ。

 この先どうするの?」

 


 あれだけ酷い目に遭わされながら、まだ自分よりも一美の心配ができる彼女は、もしかしたら一番強靭なメンタルの持ち主かもしれない。

 


「とりあえず明後日シフト被ってるし、その日に来てたら声掛けてみるよ。

 詳しくは言えなくても少しずつ伝えていかないと」

 


 正直一美がこのままバイトを辞めたりしないか不安だった。むしろこれだけの苦痛を強いられた彼女と、当たり前のようにまた一緒に居られるなんて思えるわけがない。


 しかしそれから二日後の遅番では、俺の勝手な取り越し苦労だった事が判明する。

 


二色にしき先輩、岸田さん、おはようございます」

 

「あ、おはよう三隅みすみさん」

 


 分厚い壁を作られてはいるが、それでも逃げ出す事なく一美は出勤していたのだ。

 最悪このまま彼女との縁が切れ、未来まで変わってしまうかもと懸念していたが。

 


「一美ちゃん、おはよう。

 ひとつお願いなんだけど、これからはうちの事も千紗って名前で呼んで欲しい。

 ……ダメかな?」

 

「ん? 

 なんで私が岸田さんを名前で呼ぶんですか?」

 


 千紗の発言の意図が全く読めない。

 一美は疑うような表情で理由を確認しているが、むしろ俺が聞きたいくらいだ。

 


「うちは一美ちゃんと仲良くなりたい。

 また友達同士として笑い合いたいの。

 そうしたらお互い同じ立場だから、彼を巡って正々堂々ぶつかり合えるでしょ」

 

「……あとにして下さい。

 これから仕事なので」

 

「うん。仕事後にまた話そう」

 


 まさかの宣戦布告に、俺も動揺を抑えられない。

 一美は黙って勤務前の準備をしているが、考え込む様子の千紗の横顔を見た俺は、その場の重苦しい空気に息が詰まりそうだった。

 

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