第11話 前触れはいつも幸福の中に
「
「ありがとう
でもなんで知ってたの?」
出勤早々休憩室の端っこで彼女からお祝いの言葉を貰い、その嬉しそうな笑顔に癒されるところから始まった素敵な日だ。
しかし俺ですら昨日まで忘れてたこの日を、彼女が把握していた理由に心当たりが無い……。
まぁその疑問は数分と経たずにあっさりと解決する。
「おぉ居たいたー。
ほれ二色くん、あたしからの誕プレさぁ。
ありがたく受け取っておきなー」
「松本さん、ありがたく頂戴しますが、なぜ今日だとご存知で?」
「なーに言ってんの。
あんたが
ついでに結構言いふらしてるから、いっぱい祝われるといいねぇ」
あっけらかんと個人情報の暴露を告白した松本さんだが、隣の千紗の苦笑いを見ていると、彼女の情報源もここだと察した。
その日は一日中お祝いムードに包まれて過ごしたが、正直自分の誕生日だという自覚はイマイチ湧いてこない。
「愛されてるなぁ錬次。
今日顔を合わせたスタッフ全員に祝われただろう」
「二色さんはお客様だけじゃなく、スタッフにも親切ですからね。
みんなに好かれて当然ですよ」
「たしかにそうかもな。
岸田さんも錬次との関わりが増えてから、だいぶ店にも馴染んだもんね」
それだけじゃないと言わんばかりに、千紗は顔を赤くしているが、
スタッフとの会話がやたらと多かった、変に気苦労ばかりの勤務時間が終わり、残りの時間を千紗と過ごす事にした俺は、お互いの家から徒歩圏内にあるバーに入った。
この体になって一番嬉しかったのが、美味い酒を浴びるほど飲んでも酔い潰れないところだろう。千智の体はひたすらアルコールとの相性が悪く、何度も失敗や後悔をした覚えがある。
しかしこの日はいつもと違い、調子に乗って強い酒を飲み過ぎてしまったせいか、頭の中と視界がぐらぐら揺れていた。
「錬次くん大丈夫?
お水飲んだ方がいいよ」
「うぅん、大丈夫大丈夫。
どーせ明日休みだから……」
全く大丈夫じゃないことは分かっていたが、思考と
さすがに恋人権限で制止が入り、半ば強制的に会計を済ませて店を後にした。
生ぬるい外の空気がぼやけた頭を多少は楽にしてくれるが、何処からともなく耳に入る
ここで解散してお互い家路につくのが懸命なのだが、心配そうに当てられる視線が、鈍った判断力を更に遅延させていた。
「錬次くん、このままうちの部屋に来る……?」
突然の大胆な提案は酔った脳みそにも刺激が強く、若干反応に困った俺の表情は、決して健全ではなかっただろう。
「……ホントにお邪魔してもいいの?」
「うん、ここからなら割と近いし、今の錬次くんを一人にする方が心配だから。
それに明日は課題のデータを提出するだけで、通学する必要が無いの。
だから夜更かししても大丈夫だよ」
その言葉の意味を、この場で確認する勇気は持ち合わせておらず、彼女に連れられるままに地面を向いて歩き出した。
八月に映画を観に行った辺りから、手を繋ぐくらいはお互いに慣れていたが、さすがにこの状況下では自分の手汗も心配になる。
「歩いてて気持ち悪くなったりしてない?」
「う、うん、平気だよ。
なんか頼りなくてごめん」
「錬次くんにだって甘える時間は必要でしょ。
いつもうちらを支えてくれてるんだから、二人の時くらい気を抜いてもいいよ」
下を向いてる俺を心配し、情けない姿も快く受け入れてくれる、まさに男の理想となる完璧な彼女だった。
憧れの相手が今は子どものように手を引かれているのに、これでも全く気持ちが冷めないのなら、それは彼女の域を超えていると思うが。
緊張からか歩いた時間も忘れ、ふと気が付けば千紗が暮らすマンションの前まで来ていた。
すでに酔いもほとんど覚めたはずだが、いまだに顔面の火照りと心拍数は増していくばかり。
千紗の部屋に入るのは今回が初めてだが、中は全体的に片付けられているし、ほんのりいい香りが漂っている。
「ベッドに横になって休んでて。
今お水持ってくるから」
案内されて腰掛けたベッドは、どう見ても日頃彼女が使っているものだ。ここでいきなり横になるのはかなり敷居が高い。
気恥ずかしさと嬉しさにそわそわしていると、すぐに千紗が部屋に戻ってくる。その手にはミネラルウォーターとタオルが握られており、持ったまま目の前まで近付いてきた彼女は、おもむろに俺の顔を覗き込んだ。
「ちょっとごめんね。汗かいてるから」
反射的にぎゅっと目を閉じた俺は、汗ばんだ
正直彼女の面倒見がここまで良いとは思ってもみなかった……
「今夜はそのベッドを自由に使っていいからね。
うちは課題を進めた後、床にお布団敷いて寝るから」
「いや、それなら俺が床で寝るよ!」
勢いで立ち上がろうとした俺は、強引にベッドの中に押し込まれた。
「錬次くんだいぶ疲れてたでしょ。
まず酔いを覚まして、溜まった疲れも取れてから遠慮すること。
今日はあなたが甘える日なの!」
まるで母親のように世話を焼いてくるが、これはもしかして彼女なりの誕生日の気遣いなのか?
諦めて千紗の枕で目を瞑るが、ほんのり甘い良い匂いと、寝顔を見られそうな緊張感で落ち着かず、彼女に背を向けて壁側を向く事でなんとか紛らわした。
しかしそれだけで眠れる図太さなど無く、しばらくの間冷静になれと念じていると、不意に掛け布団が
「え、なに⁉︎
これはどういう………?」
なんと千紗までベッドに潜り込み、俺の背中にピッタリとくっ付いていたのだ。
さすがに理性を保つにも限度があるので、この行動の意味を確認する必要がある。
まさか千紗がこんな行動に出るとは……
「今はこれで許して。
うちもう心臓が限界なの……」
嫌々やってるわけではないけど、いざ行動してみたら身体が強張ってしまったのか。
彼女なりの優しさに、緊張よりも幸福感が溢れてくる。
「千紗ちゃん、絶対に嫌がる事はしないから、そっちに向いてもいい?」
「え……?
う、うん。いいよ……」
俺はゆっくりと体の向きを変え、彼女と向かい合わせになる。
懐で戸惑う小さな頭を出来るだけ丁寧に腕で包み、日頃の感謝を伝えるように滑らかな髪を優しく撫でた。
そのまま勢いに任せて……とはいかず、満たされるような安心感から熟睡してしまうのだが、翌朝になると事態は予想だにしていなかった急展開へと向かうことになる………
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