第9話 もう繰り返す事のないように

「なぁ錬次れんじ、最近三隅みすみさんの様子がおかしくないか?」

 


 三人で食事をしてから一週間が経過した。

 あれから一美ひとみとは意識的に距離を置いていたが、一美からもこちらに対して遠慮がちになってる気はする。

 どうやら千智ちさともその異変を感じ取っているようだ。

 


「どの辺がおかしく見えた?」

 

「なんか愛想笑いが多くなったし、少し疲れてるような……」

 


 そんなにあからさまでは接客に支障が出るし、さすがに心配で放っておけなくなるだろ。

 居ても立っても居られなくなり、休憩中の一美の様子を確かめに行くことにした。

 


「あれ? 二色にしきさんどうしたんですか?」

 


 これは………。

 この顔をした妻を俺はよく知っている。

 


「三隅さん、なんで夜更かししてんの?」

 

「えぇ⁉︎ なんで分かったんですか⁉︎」

 

「目元のくま、ファンデの厚塗りとハイライトの入れ方を変えて隠してるじゃん。

 バレバレだよ」

 


 一美は一瞬で真顔になり、口をつぐんでしまった。

 彼女目線で考えてみれば、なんか同僚の男にめっちゃ顔見られてた! って思われるよなあれじゃ………

 


「実は大学の課題に苦戦してるんです。

 内容が捗らず、時間ばかりを浪費してしまって……」

 


 なるほど。それで眠気やストレスを誤魔化す為に、らしくもなく愛想笑いを使っていたのか。

 


「しんどいなら無理して明るく振舞わなくていいよ。

 接客以外にも仕事はいくらでもあるんだから、今日は店長に頼んでそっちに回してもらおう。

 それでも難しいようなら言ってくれ」

 


 一美は大人しく返事をして、その日は裏方の業務に専念した。

 

 更に二週間が経ち、夏休み前の課題の為にシフトを減らしてた一美が、ようやく元のスケジュールに戻し始めていた。

 しかし今度はまた別の変化が起き始め、俺の頭を悩ませる。

 


「一美ちゃん、さっきはありがとう。

 本当に助かったよ」

 


 千紗ちさに礼を言われ照れ臭そうに鼻をく一美が、俺に気付くやいなや、すぐに切り替えて次の業務に向かった。



「あれ、どうしたの……岸田さん」

 


 最近は名前で呼ぶのにも慣れてきて、勤務中でもつい千紗ちゃんと呼んでしまいそうになる。

 


「二色さん、さっき一美ちゃんに対応のフォローに入ってもらって、おかげでお客様をお待たせしなくて済んだんです」

 


 やはりこっちでもか。

 ここ数日間で急に一美の働きぶりが良くなり、どんどん周りを手伝いに行くし、苦手だった電子端末もだいぶ扱えるようになったのだ。

 独りで急成長したとは考えにくいし、誰かが徹底的に教えたのかと思い調べて回ると、答えは思わぬ場所に辿り着く。

 


「あぁ、あれね。

 二色に教わった事をびっしり書いてあるメモ見てさ、毎日練習してたんだよ彼女。

 いやぁホント丁寧に教えてるよなお前は!

 俺にもその几帳面なとこ少し分けてくれ!」

 


 そう語った矢野さんによると、一美は出勤前や休憩時間もメモにかじり付くようにして、必死で苦手分野を克服してたと言う。

 社員達や千智にも分からない事を聞きに来る回数が増え、最近の彼女の積極性をみんなが評価していた。

 しかし俺はその事実を不自然な程に認知していない。

 やっぱりだいぶ避けられているみたいだ……

 

 いやなんで落ち込んでいるんだ俺は。

 俺自身が将来の浮気相手にならないため、錬次としての人生をこの手で変えていこうと決めたんじゃないか。

 一美と千智の将来が幸せのまま続いていくためには、千智ではなくなった俺が深く介入するのは危険だ。

 それに今は俺を見てくれる人だっているんだから大丈夫……

 


「錬次くん、どうしたの? なにかあった?」

 

「岸田さん………あれ?」

 

「もうここにはうちらしか居ないから大丈夫だよ」

 


 意識がはっきりすると、すぐに夜空が目に入ってくる。

 俺はぼーっとしたまま退勤し、帰路に着くみんなを見送った後でも呆けていたみたいだ。

 矢野さんの話を聞いた後から、ほとんど何をしてたか覚えてない。

 


「そう言えばさっき一美にも挨拶してたよな……」

 


 不意にこぼれ落ちたうわ言に、千紗はみるみる表情を曇らせていく。

 


「ごめん、うちのせいだよね。

 錬次くんがそんなに苦しい思いをしてるの」

 

「なんで千紗ちゃんが謝るの? 

 君は何も悪い事してないだろ」

 


 突然彼女が謝りだした心理が分からず困惑するが、その理由は続けて説明された。

 


「一美ちゃんはうちに気を遣っているんだと思う。

 錬次くんに甘えれば必ず応えてくれるってことに、一美ちゃんはもう気付いてる……。

 だけどうちが嫌な思いをしないために、なるべくあなたに頼らず頑張ってるの」

 

「それは君のせいじゃないって。

 俺は君の気持ちを知ってるし、応えたいとも思ってるのに、いつまでも昔の記憶にしがみ……」

 


 言いかけたその瞬間、千智だった自分と一美との尊い思い出の数々が、走馬灯のように脳内を駆け巡った。

 付き合い始めから結婚生活まで、全ての記憶が俺にとっての特別であり、そして一美の中でもそうであったはず。

 この世界の千智が過去の俺なら、見ることの出来なかったその先の、一美が母親として幸せに生きる未来を叶えてほしい。

 

 この願いは俺が身を引き、浮気相手にもならない事が前提だ。

 友人としてそばに居てもきっと問題が起こるだろう。

 全部わかっていた事だが、ただただ胸が締め付けられて苦しくなる。

 呼吸すらままならない嗚咽おえつと、頬を伝う溢れんばかりの涙は、何かで埋めない限り止まる気配もない。

 


「うちじゃやっぱりダメなのかな……」

 


 不意に抱きついてきた腕も声も、俺の心と共鳴するように強く震えていた。どこにも行くなという悲痛な叫びにも似ている。

 包み込むのではなく、すがるような抱擁ほうよう

 だがそれは必要としてくれている気持ちの表れだ。拒みたいとはもう思えない。

 


「君じゃなきゃ駄目なんだ。

 俺を離さないでいてくれ」

 


 ようやく絞り出した言葉はあまりにも身勝手だが、彼女は泣きながら何度も首を縦に振り、必死に応えようとする。

 俺も彼女の背中に腕を回し、精一杯の感謝を込めて抱きしめた。


 それでも収まる事のない二人の感情は、やがてお互いの距離を目の前に引き寄せ、涙に濡れた唇をゆっくりと重ね合わせる………

 

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