第7話 それは救いか諦めか
映画に行く約束を取り付け、席を立った松本さんの戻る遅さを不審に思っていると、空席になっていた俺の隣に
俺の手にはちょうど開いたスマホがあり、岸田さんと連絡先を交換し終えたばかりだったので、なんだかいたたまれない気持ちになる。
しかしその感情はあくまでも俺個人のもので、二人を包み込む空気はとても和やかだった。
「
少し顔色が優れないみたいですが、大丈夫ですか?」
「ん? あぁ、酒に強いからって調子に乗って、ちょっと飲みすぎたかな」
「あははっ! ほどほどにして下さいね。
面白がるように彼女が指差す先には、酔い潰れてテーブルに突っ伏してる
「二色さん、それでお話しってなんですか?」
「え、話し?」
どうやら一美は話しがあると伝えられてここに来たみたいだが、もちろん俺に心当たりは……あるかも知れない。
離れた席からまたもやジェスチャーをしている松本さんに気が付き、この状況を作った確信犯である事が判明する。
せっかく気持ちを切り替えていたのに、また余計な事を……
「そうそう話しね!
せっかくだから新人の二人が職場に慣れたか聞いておきたくてね。
楽しくやっていけそう?」
苦し紛れに話題を振るが、もちろん呼び付けてまで聞くような内容ではない。
「すごく楽しいですよ!
スタッフさんはノリの良い人ばかりだし、洋服畳むのも好きです!」
「うちも最近だいぶ慣れてきました。
みんな優しいですが、二色さんは特に親切にしてくれますし」
予想外に二人が話を盛り上げてくれて、一時間近くお仕事トークに花を咲かせた。
そしてこの当時から一美は
二次会にも参加したかったが、これ以上昔の
「うっ……! なんだこれ重っ!」
爆睡中の千智を肩に寄り掛からせ、立ち上がった時のとんでもない重量感に脚が震えだす。
身長は大差ないが、錬次より筋肉質で十キロぐらい重い体が、重力に抵抗せずのしかかってくるとこうなるのか。
「うちも手伝います」
すぐに支えに来てくれたのは岸田さんだった。
彼女の協力によりなんとか歩ける程度になったが、酔いが覚めてきた他のスタッフ達も集まり、最終的には数人がかりで
「重かったねこいつ。
それよりみんなと一緒に電車で帰らなくて良かったの?」
「はい。うちの最寄り駅は壱谷さんと同じですし、タクシーからお部屋に運ぶ時も、二色さん一人では大変だと思うので……」
みんなが解散して続々と駅やカラオケ店に向かう中、岸田さんだけがこの場に残り、一緒に送迎車を待っている。
一美は別れ際に少々心配そうな顔をしていたが、家が反対方向の彼女を手伝わせるのは色々と手間になる。
唯一帰宅に影響が無かったのが、岸田さんだったわけだ。
「そっか、ありがとね。
仕事の時もいつも積極的に手伝ってくれて、本当に助かってるよ」
仕事に関しても真面目だが目立つ方ではなく、一美とはよく会話してたけど……そう言えば錬次にも懐いてたとこあったな。
五分程でタクシーが到着し、助手席のシートを倒して起きる気配の無い酔っ払いを押し込む。本当はトランクにでも詰めてやりたい気分だったが。
後部座席では岸田さんと隣同士で座るが、頬を赤らめて下を向く彼女の姿に、こちらまで妙な緊張感が走る。
静かに動き出した車の中は若干気まずい空気に包まれ、会話の話題も思い浮かばず外に視点を移した。
綺麗なガラスと暗闇の重なりは車内を鏡のように映し出し、窓の中では錬次と岸田さんのツーショットが出来上がっている。
なんで俺の知る未来では隣が一美だったんだよ……
「壱谷さん、本当によく寝てますね。
お疲れだったのかな?」
「いや、そいつは酒好きなのにかなり弱いんだよ。
一回落ちたら気が済むまで眠り続けるぞ」
「そうなんですね。
うちもあまりお酒強くないので、壱谷さんの気持ちも少しだけわかります」
気を利かせて岸田さんから話しかけてくれたことから、なんとか場を持たせることに成功した。年上の男としては情けない限りだが……。
一度繋がれば彼女との会話のキャッチボールは難易度が低く、千智のアパートに到着するまで途切れる事がなかった。
「はぁぁ、つっかれたぁ……。
本当に助かったよ。一人じゃこの階段は無理だったわ」
「いえいえ、無事にお届け出来て何よりです」
アパートの階段はほとんど引きずるように運んだが、部屋のベッドに寝かせて鍵まで掛けてやるというご奉仕っぷりだし、今度こいつには何か奢らせてやろう。
送り届けた荷物が重過ぎたので少し休んだが、そこから徒歩圏内に暮らす俺達はようやく解放された気分だった。
しかしこんな真夜中に可憐な女子大生を一人で帰らせるほど、俺は薄情な男ではない。
「岸田さん、家まで送って行くよ」
「え、いいんですか?」
話しを聞くと通学の利便性を考え、この近所のマンションで一人暮らしをしているらしく、俺が今住んでる部屋ともそれほど離れていなかった。
歩き始めた途端、隣の岸田さんはなんだか機嫌が良さそうになり、トーンが少し上がった声で話し出す。
「実はうち、以前から二色さんのこと知ってたんですよ」
「え、どういうこと?」
一瞬だけ自分の境遇と混ざり、もしや彼女も過去に転生したのか? なんて考えたりしたが、すぐに思い過ごしだと分かる。
「お店がオープンして少し経った頃、あのお店に友達と買い物に行ったんです。
その時に売り場で二色さんを見かけました」
彼女は瞳を輝かせながら、その日の出来事を語ってくれた。
俺の接客がすごく上手で、お客さんも喜んでたこと。
他のお客さんに呼ばれて、楽しそうに駆け付けてたこと。
売り場までの案内中に、世間話まで盛り上がってたこと。
他のスタッフのミスを、全力でフォローしてたこと。
その時の光景を今も見ているかのように表現する彼女は、なぜだかとても幸せそうだった。
「その時うちは思ったんです。
あんな風に誰かを喜ばせながら、自分も一生懸命になれるお仕事がしたいって。
二色さんはその日からずっと、うちの憧れの人です」
俺の視線は彼女に吸い込まれ、もう離せなくなっていた。
暗闇に包まれた空虚な世界で、地上に舞い降りてきた流れ星のように、彼女だけがその場所で光り輝いている。儚くも力強いこの光こそが、俺を願いと共に導いてくれるのかもしれない。
完全に心の針は揺れ動いている。
「二色さん、うちはまだ酔ってるかもしれません。
だから今から言うことがもし不快であれば、聞き流すか忘れてもらって構いません。
うちもきっと酔いが覚めれば忘れちゃいますので」
「……ちゃんと聞くよ」
彼女は黙って頷いた。
ゆっくりと目を瞑り、気持ちを落ち着かせるように胸元に手を当てた後、とても穏やかな声色で話し出す。
「二色さんが一美ちゃんに向ける眼差しが、他の誰よりも特別なものなのは知ってます」
「………」
「でも何か事情があって、それを隠そうとしていることも分かりました」
「……うん」
こちらにゆっくりと近付いてきた彼女は、全身の力を徐々に抜くようにして、優しく俺にもたれかかってきた。
受け止めた彼女の体はじんわりと暖かく、まるで壁の向こう側の音を聞くみたいに胸に手と耳を当てている。
「少しだけうちにも分けてくれませんか?
もっとあなたに近付きたいです」
自分の耳まで届きそうなくらい、俺の鼓動は大きく鳴り響く。
「あなたのことが好きです」
言葉は出ない。ただ感情だけが
過去に戻り、親しかった誰も彼もが俺を錬次だと認識する。
一美に俺の名前を呼ばれているのも、今は俺じゃない。
心の穴は広がり続けていた。俺の存在はもう俺ではないのだと諦めていた。
だけどようやく現れたんだ。彼女が見ていたのは紛れもなく中身の俺だと思えた。それが心の底から嬉しくて仕方がない。
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