第8話 スマートワールド

 202x年7月9日 午後1時00分 スマートワールド

  

 かいの日常から希空のあがいなくなって一カ月がたった。

 解放区は、以前の日々を取り戻した。

 青い空に日差しが強い。もうすぐ梅雨明けだ。


 界は緑の深くなった草むらの上に寝ころんでいる。

 すぐそばに狭間はざまが立っている。

 あれからふたりは一緒にいることが多くなった。狭間といると気持ちが楽になるからだ。身構えるものがなくて良いというのは、狭間のもつ得難い資質だと思う。


「今日も視線を浴びている」


 狭間のひとりごとがはじまった。

 太陽に顔を向けて穏やかな表情だ。


「あたたかい。視線はコミュニケーションだ」

「そうかもしれないな」

「神様が、ぼくと交信するためのツールだ」


 そして、空に向かってなにか言葉にならない音声をつぶやいている。牛島医務官にたずねたことがあるが、狭間はもうらしい。ずっとこのまま、視線にストレスを感じることがなくなった代わりに、普通の人と意思を通わせることはできない。


 ――どうやれば、ああなれるんだ?


 牛島は顔をしかめた。「医者にきくことじゃない」というだけでなにも答えてくれなかった。あのとき殴ったことにまだ腹を立てているのかもしれない。


「神と交信するためのツールか……」


 草を踏む音が聞こえて、人の影が界の視界に落ちてきた。青い空にひるがえる白衣の裾。牟臥むが調整官だった。のどをひくつかせて笑った。


「なに?」

「視線は神と交信するツールだって、狭間が」

「……狭間らしいね。手紙、来てるわよ」

「手紙?」


 解放区に外部との交信手段はない。『下界』の人ととやりとりするには、SNSやメールではなく原始的だが手紙に頼るしかない。差出人は「瑞樹希空みずきのあ」となっていた。住所の記載はない。


 拝啓 逸洲界さま

 暑くなってきましたね。ぼくが「解放区」を出て一カ月が経ちました。界は元気ですか。

 ぼくも元気でやっています。


 ……というの嘘で、こちらではさんざんです。

 界はいつも作業室のタブレットで『下界』の様子を調べて分かっていると思うけれど、こちらの人たちはもうだめ。巨大資本とそのAIたちのいいなりに働くことにしか存在価値を見いだせていない。


 知ってる? 脳にチップセットを埋め込む手術を政府が奨励してること。「手術を受けると作業効率が2倍になります」だって。一日に二時間の睡眠で22時間は働けるらしい。こんなバカな手術に何万人もの人が予約待ちだなんて。


 世界を覆う効率主義は、人間が人間らしくあることを許さなくなってる。

 国家は、効率的に利益を上げたい巨大資本が推し進める効率化世界スマートワールドの追認機関に過ぎなくなった。新しい政府の総理大臣には、巨大製薬企業〈アストラファイザー〉から執行役員が派遣されただろ。この国は、製薬会社の下請けで、国民はその従業員というわけ。


 世界がこんなふうだから、ぼくのような人は受け入れられない。

「もっと効率よく働け」

「子どもでもできることができていない」

「給料どろぼう」

「無能」

考えつく限りの罵声をあびてきた。そのたびに「すみません」「教えてください」「つぎはきちんとやります」……もう、うんざりだよ。


 職場では、なんでもかんでも効率化、採算ベース。AIのように働けと求められる。こちとらコンピューターじゃないよ、人間だって! 


 効率化のために、すべての作業はシステム化、手順はマニュアル化、業務はシェアリング。だから言ってやったの「セックスもシステム化してシェアリングするのか」って。やつらへんな顔してた。きっとセックスなんてしないんだろう。非効率で生産性の低い行為だから!


 こっちへきてから謝ってばかり。一番口にする言葉は「すみません」。そっちにいたころは誰彼となく「愛してる」と言ってたぼくがだよ。笑っちゃうね。


「解放区」にいた頃が懐かしい。

 こんなを愛してくれてありがとう――。

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