第6話 暴力

 202x年6月7日 午後5時00分 暴力


「人は非効率的な存在だ」


 顔を上げると、目の前に狭間はざまが立っていた。

 医務室前の廊下から消えた男だ。


「は?」


 狭間を見ると、その向こうに希空のあの姿を見てしまう。

 なんの関係もないふたりなのに、それが不愉快だった。


「トレーニング自体が無意味だ」


 目の焦点が合っていない。でも、その言葉がまっすぐ界に向けられていることは明らかだった。

 界は、タブレットを手にしているが、トレーニングをしているわけではない。SNSでニュースを見ていた。解放区にテレビはない、新聞もない、「下界」の情報を手に入れようと思えば、ネットを介するほかはない。


 SNSには悲鳴と怨嗟の声が満ちている。効率主義のきしむ音が、SNSのメッセージのあいだから漏れ出てきているように感じる。それは不安と不満で膨張し、はち切れそうになっていた。


「ここと、どっちが地獄だか」

「彼女は退所する」


 狭間の声に手が停まった。


「なに?」


 なんといった。


「だれのことだ」

「トレーニングは終わったよ」

「希空は出ていったりなどしない」

「トレーニングは必要ないよね。」


 話が噛み合わない。薬がキマっている。

 狭間は、なにかを界に伝えたいのかもしれないが、うまく伝達できないでいる。コミュニケーションの不全だ。ここではよくあることだ。しかし、心穏やかに聞いていらけるかどうかとは、また別問題だ。

 無言のまま立ち上がると、界は拳を固めて狭間の左頬を殴りつけた。無抵抗に拳をくらった狭間は、横倒しに床へ倒れ込んだ。その目がはじめて界の目を捉えた。


「暴力もコミュニケーション?」


 狭間の言葉がきつかけだったかのように、作業所が騒がしくなった。

 出入口の扉が大きく開かれ、白衣を着た何人もの調整官が現れた。手に手に特殊警棒を持っている。


「逸洲だ」

「捕まえろ!」


 反対側の出口を目指して走りだす。調整官が追ってくる。椅子を蹴り飛ばし、机を踏み越えて、収容者を飛び越しながら逃げる。調整官が追う。わけがわからないながらも、収容者も界を追う。伸びてくる手を払い、顔を踏みつけて、叫ぶ、殴る、蹴る……。これまでの静寂に変わって、作業所を混乱と狂乱パニックが満たしてゆく。


「あきれたものだな」


 結局、ふたりの調整官と、五人の収容者を医務室送りにした挙句、界は捕まった。頬が裂け、鼻血を垂れ流し、腫れたまぶたに目がふさがれた界は、医務室ではなく自室に収容された。部屋では、牟臥むが調整官が待っていた。


「逃げられるとでも思ったのか? 牛島は大きく顔を腫らして、起こっていたぞ。馬鹿なやつだ」


 自室もカウンセリングルームや医務室と同じで白い。

 白い壁と、白い扉。白い床に白い布団が一組おかれている。それきりであとはなにもない。夜、身体を横たえるだけの部屋だからだ。


 いま、その部屋の入り口には頑丈な鉄格子の仕切りが降りている。もとから収容者を監禁することのできる機能を備えた部屋なのだ。社会不適合者矯正施設「解放区」。だれを、なにから解放する施設なんだ?


「……か」

「なに?」


 界はいま、拘束具で手足を縛られて、床の上に転がされている。自然、腰に手を当てて彼を見下ろしている牟臥を仰ぎ見る形になる。


「希空が……退所する……ほんとうか」


 頬の内側が切れて話しにくい。血が目に流れ込んできて、牟臥がにじむ。


「あ? 狭間か。仕方のないやつだ」

「どう……なんだ」

「そうだよ。瑞樹は退所する。今回のことを見ても彼女がトラブルメーカーなのは明らかだからな」

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