第2話 コミュニケーション

 202x年6月5日 午前10時00分 コミュニケーション


 逸洲界いつしまかいが、ここへやってきた入所したのは、これが三回目だった。そして、はじめて瑞樹希空みずきのあに出会った。彼女は、その魅惑的な肉体で解放区の男たちの上に君臨する女王だ。収容者はもちろん、男性であれば施設の矯正官も、医務官であってもお構いなし。彼女の皮脂は、男の理性を破壊する香りを放っている。だから、彼女は常々こう言うのだ。


「ぼくの頭はおかしくない。


 それでも、界と出会ってからの希空は変わった。「パートナーは界だ」と公言し、他の男は寄せつけなくなった。もっともじぶんからセックスを誘いかけることまでは、やめなかったようだが。


 界は、のろのろと立ち上がると作業服を手に取った。希空とのセックスに、夢中になるあまり、始業時間はとっくに過ぎていた。作業所へ向かった方がいいだろう。


 草を蹴って歩きはじめた。

 薬が効いている。最高の気分だ。黒い雲が広がる空も、強い風も気にならない。空からは優しい光がふりそそぎ、大地からは活力エナジーが流れ込んでくる。


 希空と会ったあとはいつもこうだ。薬をキメたかどうかにかかわらず、幸福な気分に包まれる。彼女は優しい。文字どおり心も身体も界のことを受け入れてくれるからだ。万能感に包まれながら、作業所へ歩いてゆく。


 ここ――「解放区」は、全国に13箇所ある社会不適合者矯正施設のひとつである、約1300名の収容者と、彼らを矯正、指導する役割を与えられた矯正職員が暮らしている。


 収容者の属性はさまざまだ。日本人が多いが外国人もいる。上は89歳から下は11歳まで年齢幅も広い。国立大学を修了したエリートもいれば、中学から一度も登校したことのないひきこもりもいる。しかし、こんなとりとめのない収容者にもひとつだけ共通する属性がある。のだ。


 それはさまざまな原因によるものだが、界の場合のそれは視線不安障害という心の状態だった。


 ――だれかに見られている。

 ――視線を感じる。


 街を歩いているときはもちろん、食事をとっているときも、排便をしているときも、睡眠のあいだでさえ、夢のなかで彼はなにかの視線におびえていた。


 その苦痛と恐怖は、耐えがたいものだ。学校生活にはなじめず、就職先にも溶け込めない。第一、常にだれかの視線を気にしていては、勉強も仕事も手につかない。学校を卒業して以来、ひと月として同じ仕事が続いたことはなく、界は職を転々としていた。


 解放区ここへは、医者の紹介をもらってやってきた。ここでは、集団生活を通してさまざまな精神疾患や心の歪みに対するケアを受けることができる。カウンセリングを受け、職業訓練を積み、社会復帰の手助けをする施設――ということになっている。


 過去2回の入所でいくつかのカウンセリングと職業訓練を受けたが、その甲斐なく舞い戻ってきた。そして、三度目。界は、希空とセックスとに出会った。


 言葉を介したコミュニケーションは不自由だ。行き違いがある。誤解もある。界は――いや、解放区ここの住人になるような人間は皆、言葉によるコミュニケーションに苦痛を感じている。そこに、ほんとうのじぶんはいないと直感する。じぶんがじぶんではないという感覚。


 ――じぶんは偽れない。


 ほかのだれとも共有できない「視線」に悩まされているかいは、その苦しみを伝えられない言葉の力に絶望していた。


 しかし、その苦しみから突然、された。界の前に、希空のあが現れたのだ。希空はコミュニケーションにセックスを用いていた。


 セックスは誤解の少ないコミュニケーションだ。ふたつの肉体が直接触れあって伝わるメッセージに偽りの滑り込む余地はない。希空と身体を重ねていると実感する。


 ――と。

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