【スピンオフ】ちっぷ亭マスター チップさんの独り言3


その日の朝の気温や湿度、風の匂いや空気の味で、俺はその日の天気がわかる。


単車乗りだから天気予報はちゃんと見る。

だが、それ以上に空気の味で天気がどうなるのか俺にはわかった。


卒業した俺たちが、軽音部の部室に残した荷物を回収しに、部室に行く約束をしていたあの日。


クラリスのニューヨーク行きの日が迫っていたため別日にすることができなかった。



単車に跨りクラリスの家に行く。


彼女の部屋にあげてもらい、叩いてもベッドから落としても起きない時もあるクラリスをなんとか起動させ学校に連れて行く。


校舎の一階の自販機で飲み物を買ってそのまま階段を登り部室へ向かう。


毎朝のこの恒例行事も最後だと、ちょっとセンチになっていたからかもしれない。


部室に入って深緑色のベースアンプの上に腰掛けながら置いてあったライブや合宿の写真を見ていたクラリスを何も言わずに抱きしめてしまった。


クラリス「どうしたの……写真見えない……」


チップ「……」


クラリス「寒いよね、暖房早くつかないかなぁ……。今日もっと分厚い上着で来ないとダメだったね。」


チップ「……」


クラリス「どうしたの?」


チップ「……」


クラリス「……飛行機に乗ったらこっちに帰ってくるまで連絡しないでおこうと思うんだ。」


チップ「……」


クラリス「実はね、叔母さんのコネでデザイン事務所のアシスタントで使ってもらえることになって。きっと打ちのめされること多いと思うから、ちょっとでも甘えられる場所は作らないでおきたいんだ。」


チップ「……ちゃんと飯食えよ。」


クラリス「うん、気をつけるよ。頼れる人はいないってつもりでやんなきゃ通用しないだろうし。」


チップ「……ちゃんと朝起きろよ。」


クラリス「目覚まし3つかける。」


チップ「……変な男に引っかかるなよ。」


クラリス「……雪、降ってきた……。」


俺の腕をそっと解いて窓の外をしばらくクラリスは眺めていた。


クラリス「ここから、チップ君の家見えるんだね。……ねぇ、あのシチュー食べさせてよ。」


そうだ、あの日ここで、この席で、俺はクラリスにシチューを作った。


制作に打ち込み食事をおろそかにしがちなクラリスに初めて作ったのが、シチューで、そういえば、その後もよくいろんな料理を作っていた。


俺ってますます律儀で泣けてくる……。



クラリスがシチューを食べ終わる頃にはもう雪がしっかり積もってしまっていたので、俺は店番で残り、親父が車で送って行った。


クラリスは決心が鈍ると飛行機の便は教えてくれていなかったし、たとえ雪が降っていなくても、クラリスを家まで送り届け、自分の何歩も先で新天地へ旅立つ彼女へ、気の利いた餞別の言葉なんて思いつかなかっただろう。





クラリス「今日のランチメニュー、シチューって書いてあるけどもう食べれるの?」


チップ「まだこれから仕込みだよ。手伝えば早く食べれるけどな。」


クラリス「お腹すいちゃった。エプロンかして。」


クラリスは思いの外手際よく仕込みを手伝ってくれた。


全ての段取りが終わり、たわいもない近状報告をしながら洗い物を済ませる。


クラリス「そっか……そんなことがあったんだねぇ。ん?あれ?その写真……もしかしてデール君やおじさんたちも映ってる?」


チップ「俺がこの店継いだ時に撮った家族写真」


クラリス「みんな元気そうだね。特におじさん、すごいいい顔してる。」


チップ「親父が体調崩して働けないって言うから心配して跡を継いだのに、ピンピンしてるし。毎日競馬場してお袋とデートして楽しくやってるみたいだけどな。」


クラリス「お店、ほとんど休みなくやってたんだし、いいんじゃないの?素敵だと思うけど?私もそんな老後がいいわ。


……結局、私はがむしゃらに突き進んで、やりたい仕事もできて、いろんなものを手に入れたけど、結局その先が空っぽだってことに気づいてから全然ダメになった。


インディーズバンドのデザインしたり、目の前のたった1人の人に喜んでもらえるなら、もうそれで良かったんだよね。


たくさんの人を感動させたいだとか、自分を世の中に知らしめたいだとか、いつまで経ってもそんな事、終わりがなくて満たされなかった……。」


そうだ、俺も同じだ。

目の前のたった1人が美味しそうに自分が作ったものを食べて喜んでくれる。それだけでよかった。


チップ「エプロン預かるよ。お待ちかねのシチューを用意するから座って。」


クラリス「やった!もう空腹で倒れそう……」


あの日と同じ食器でシチューをよそう。


クラリス「いただきます!」


水が入ったグラスを持ってカウンターを周りクラリスに直接手渡す。


クラリス「ありがとう。」


クラリスはカウンターに向かいシチューに夢中だ。


ずっと届かなかった、クラリスの背中が、今ここにある。


やっと俺は手を伸ばすことができた。


クラリス「ん?……いつまで、後ろ……に……。フフッ。動けないんだけど……ねぇ、シチュー食べてもいい?このまま食べるとチップ君の腕につくよ?」


「結婚しよう。」


「……。」


「もう離さない。」


「……えー?キスもしたことないのに?」


「何回かあるぞ?」


「えっ?」


「健全な男子が無防備に寝てる女子の部屋で何もしないわけがないだろう。」


「……。」


「キスだけで踏みとどまって耐えていた俺は、賢者か何かの転生者だと思うぞ。」


「気づいてたけどね。」


えっ?!




おしまい(。・ω・。)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る