【スピンオフ】ちっぷ亭マスター チップさんの独り言2
全身を脈打つビートはBPM120ってとこか。
顔面の皮膚までもがピクピク動いてしまっているかのようだ。
メガネが動いてしまっていないか?
包丁を握る手の感覚が……。
俺としたことが……。
もう仕込みどころではない。
レコードのボリュームは下げずに目の前のカウンターに座るようクラリスに促す。
平然を装いながらコーヒーを淹れようとするが、ケトルの水が沸騰する時間が地獄のような長さに感じた。
目の前にクラリスがいる。
最後に会った日から10年以上経っている。
クラリスと俺は同級生、同じ軽音部だった。
クラリスは毎日ギターを弾きながら、インディーズバンドのジャケットやフライヤー、ステッカーやらのデザインの仕事を既にしていた。
美術専攻でいくつも賞を取っていて、しっかり自分のやりたい事や進むべき道が見えていた。
だから卒業してそのままニューヨークに行くなんて言い出しても、ちっとも驚かなかったし、あの頃の俺たちは付き合っていたわけじゃないが、離れてたってこの関係が変わったりするわけないと思っていた。
こんなに合わない時間が長くなるとも思っていなかったが……
なんて言うか、タイミングが……な。
深呼吸をしてレコードのボリュームを下げる。
チップ「久しぶりだな。」
クラリス「久しぶり。変わらないね、このお店。まさかお店継いでるなんてビックリ。」
チップ「色々あってな。」
クラリス「色々……ね。」
聞きたい事や話したいことが山ほどあったはずなのに全く言葉が出てこない。
何から話せば……。
珈琲をじっくり、時間をかけて淹れるが、あっという間にドリップできてしまう。
クラリス「いい香り。」
チップ「食事はちゃんと取ってるのか?」
クラリス「まぁ、適当に。」
チップ「夢中になりすぎて脱水で倒れたのは、誰だったかな。」
クラリス「今は……そこまでもう打ち込めなくなっちゃったから、大丈夫。」
目を伏せコーヒーカップのデザインを眺めるクラリスは、少しやつれて、疲れているようだった。
クラリス「サクラ……あの子も色々あったみたいね。」
チップ「まぁ、持ち前のバイタリティーで明るくやってると思うけどな。」
クラリス「そんな感じね。」
クラリスは学生時代から、作品に没頭しているときは食事を取るのを忘れたり眠らないことなんて当たり前で、眠ってしまった電車で終点までなんていつものことだった。
だから、俺がバイクの免許を取って卒業する頃には毎日単車で送り迎えしていた。
チップ「……律儀だな、俺。」
クラリス「ん?」
チップ「ほとんど毎日送り迎えしてただろ?俺。」
クラリス「そうね、ありがたかったなぁ〜。」
チップ「そうか?あんまりお礼言われた覚えないんだが……」
クラリス「え〜?ちゃんと毎年バレンタイン渡してたわよ?」
チップ「みんなに配ってる義理のお裾分けだろ。」
クラリス「そんなふうに思ってた?」
チップ「……。」
クラリスは叔母がニューヨークに住んでいた。
元々英語はびっくりするぐらい出来てたし、住む場所もある。
自分を試したい、磨きたい、刺激を受けたい、そう言って具体的にどうして行くか話しているクラリスは、何となくしか将来を考えていなかった俺に取っては、とても眩しく映った。
当時の俺は、全く将来なんか見えていなかった。
だからこそ、彼女の夢の邪魔をしてはいけない。
何にも考えていない青二才の俺に、できることは、
彼女を大切に思うこと以外、なかった。
居心地のいい親友。
そう言う距離感で接していたつもりだった。
クラリス「結構あからさまに、みんなと違う感じのチョコにしてたんだけどなー。」
チップ「最後のバレンタインは、だいぶ遅れてくれたのは覚えてる。」
クラリス「試作品の制作に時間がかかってね……。」
チップ「見事な作品だったもんなぁ……チョコレートでこんな絵が描けるのかって。手先が器用だしたしかにお前ならできるんだろうけど、ショコラティエになれって勧めようと思ったぐらい。」
クラリス「……止めてくれなかったよね。アメリカ行くの。」
チップ「まさかこんなに長く帰ってこないとは思ってもいなかったからな……。あんな約束するんじゃなかったって後悔してるよ。」
当時の俺は彼女を引き留めるには俺はあまりにも無力だった。
クラリスが凄いのは俺でもわかっていたが、日本でどれだけ賞を取っていて、夢や才能があったって、ニューヨークで通用するなんて、定食屋のガキには想像できなかった。
チップ「少ししたら、『楽しかった、また行きたいな』ぐらいで帰ってくると思っていたしな。」
クラリス「私も、自分の無力さ痛感して帰ってくるだけだろうなって思ってた。」
白い肌も、肩にかかった髪も。
小さな手も、その唇も。
昔と同じ笑顔。
あぁ……クラリスだ。
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