残業手当にトキメキを

@rinyanzet

残業手当にトキメキを

 今年のバレンタインデーが週末だったのは、喜ぶべきか、寂しがるべきなのか。


 バレンタインですよぉ~と困り顔しながら定時きっかりに仕事を投げだして帰ってしまう後輩に、悩まされなくて済んだのは、ありがたかった。買い込んだ高級チョコは、マイチョコだ。残業の疲れを癒やしてくれる重要アイテムである。


 一人暮らしも板について7年。実家じゃ義姉が年末に、クリスマス会を開催したらしい。もりあがりは消えることなく、正月まで持ちこされたのだろう。


 新幹線で2時間の距離は帰れないこともないが、いまだに慣れてくれない甥っ子姪っ子を持てはやして笑顔をふりまく苦行は、嫌な取引先に笑いかける仕事の数倍、疲れるものだ。仕事なら給料や契約といった成果が得られるが、実家じゃ小遣いと気遣いを搾取されて終わりである。


 だから、去年は帰れないと嘘をついてみた。謝罪としてお歳暮とクリスマスプレゼントを送ったから、義務は果たしてある。まあいい。母の亡くなった今、可愛い孫と身の回りの世話で父を癒してくれている義姉には、感謝こそすれ何の不快も持っていない。兄から届く写メに写る父は、血色がよくて幸せそうに見える。


「あー……」


 いかん、気が散って、いらんことばっかり考えている。ちょっと休もう。


 人気のない事務所に、私が立つ椅子の音だけがキッと鳴った。乾いた響きが、やけに物悲しげだ。この事務所も古いもんな、私と一緒で。


 一人暮らしは7年だが、勤続は18年だ。お局様なんて言葉すら、私にはぬるい。高校卒業と同時に入社した会社に、まさか骨をうずめることになるかも知れないとは、あの頃は考えもしなかった。勤続20年になると、表彰状と時計がもらえるそうなのだが、ぶっちゃけ欲しくない。


 8時。そろそろ続きは明日にしますか~と思うも、明日の朝一番に顧客へ送らないといけない見積書が、まだ書けてない。営業事務の辛いところは、営業くんの持って帰る仕事が5時以降なのに「明日までに作っといて」と言われる辺りだ。


 でも営業くんだって、それで帰宅しちゃうわけじゃないから怒れない。たまには、そんなフザケた営業マンもいるけど、私が担当してる人たちは真面目で礼儀正しい。っていうか、フザケた対応しやがったら、ただじゃおかない。


「あれ?」


 私じゃない声がした。誰かが事務所に入ってきたらしい。給湯室からは見えないので、ちょっと私はどきっとした。


「誰かいるんですかー」


 上がる声には聞き覚えがある。真面目な営業のひとり、新人の佐藤くんだ。


 私は給湯室から顔を出して「おかえりなさい」と頭を下げ、すぐに引っこんだ。まだドリップしてる最中なのだ。すぐに佐藤くんが、給湯室に入ってくる。


「灯りがついてると思ったら、中田さんでしたか。まだ仕事してたんですか?」


「手が遅いものですから」


 まだ仕事してた、というニュアンスに少しカチンときたので、つい大人げない口調になってしまった。落ちつけアラフォー、相手は大卒、期待の星だ。


 すると佐藤くんは「そんなことないですよ」と声を荒げてくれた。「中田さん、めっちゃ手ぇ早いっスよ。マイちゃんの作るデータの3倍は仕事してますよ」


「ありがと。でも比べるのはNGです。仕事内容にもよるでしょ、データ入力なんて」


「すみません」


 素直な返事も、フォローもなかなか巧い。私が名字、後輩が名前でちゃん付けされている辺りも、比べないでおきましょう。


 私はコーヒー作りに戻る。お気に入りのドリップ式コーヒーを淹れるのは、残業した夜だけだ。疲れた自分に捧げる、とっておきの一杯である。


「いい香りですね」


「給茶器よりは、本格的な味がするかなーって」


「充分っスよ、俺インスタントだもん。時々事務所に残り香があったから、誰のだろうと思ってたんです」


 ってことは、私が残業した日より遅く、おそらくは殆どの日を、彼は遅くに帰社しているわけである。


 ねぎらってやろうかなという気分が起きて「出がらしで良かったら飲む?」と、振り返ってみた。うわ、ちょっ……思ったよりも至近距離だった。最近の子は、距離の取り方を知らないのかしら。


 この前も、そういえばコイツ近かったな、などと思いだしていると、佐藤くんは餌を与えられたワンコみたいな笑顔を向けてきた。


「嬉しいっス。この香りなら、出がらしだろうが絶対うまいっス」


 出がらし連呼すな。微妙に意地悪したようで恥ずかしいわ。


 私は、私用に淹れた方のカップを彼に差し出そうかと迷ったが、やっぱり2杯目を飲んでおいてもらうことにした。私のカップだし、出がらしって言われたから先の方を手渡すってのも、むきになってる感じがするし。なんて、ごちゃごちゃ考えていたら、一口飲んだ佐藤くんが「やっと飲めました」と微笑むではないか。


「誰のだろうと思ってた香りが中田さんのコーヒーで、しかも、おこぼれに預かれて嬉しいです」


「そこまで言わなくても」


 苦笑すると「いえ」と改まるではないか。


「中田さんが一番いっぱい残業してるの知ってたし、今は彼氏いないって情報も掴んでたから、俺……」


 などと言いよどまれてしまっては、うっかり期待してしまう。だって後半のセリフは文脈、関係ないではないか。どうしよう、期待していいのだろうか。でも、いい返事してしまって後から「なんちゃって」とか言われたら立ち直れない。


 私は先手を打つことにした。


「はあ? 何それ」


 笑いとばしたのである。


「彼氏いないから残業しまくってるって、評判にでもなってた?」


 しまった、これは自虐だ。


「いえ、そうじゃなくて……」


 見るからに、しゅんと萎んでしまった佐藤くん。だったが、意を決したように顔を上げた時には、ちょっと怒ってる風になっていた。いや、違う。すねてる?


「年齢差って、気にするほうですか?」


 何の話よ、文脈が見えないわよ……と、ごまかそうかとも思ったが、残念ながらバッチリ見えている。つもりだ。年の功なのか、私が飢えているからなのか。うん、多分、飢えてる。与えてくれる愛情に。


 愛情は与えるものよ、欲しがるものじゃないわ、なんて強がってきたけれど。


 与える相手もいないんじゃ、枯渇するもののようだ。


「コーヒーご馳走様です。今言ったことは忘れて下さい! じゃ俺、仕事ありますんで」


 佐藤くんは大事そうにマグカップを両手で持ち、でも、足取りは素早くデスクに戻る。取り残された形になった私は、私からアクションを起こさなければ、この夜が幻に終わると悟っていた。


 ひょっとしたら、私の勘違いかも知れないけど。


 ひょっとしたら、佐藤くんにからかわれてるのかも知れないけど。


 ひょっとしたら、例え付きあうことになったって、巧くなんて行かないかも知れないけど。


 でも。


「ちょっと待ってよ。言い逃げなんて、ずるいことしないでよ」


 呼びとめて給湯室から飛びだして、私は引き出しからチョコを取り出した――。




 どうせ先の見えない人生、投げるなら自分で賽を投げなきゃね。

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