第16-6話 怪異の殺し方 ー結ー

「あの呪いは俺にとっても都合が良かったんだ。実のところ、もう前に後にも行けなくなってたから。それに、悪意は悪意で塗りつぶのが一番手っ取り早い」

「相手は一人じゃないでしょ。あんた、何をしてきたんですか?」

「さぁ? 恨まれる心当たりが多すぎてな」

 言って、先輩は小さく肩を揺らした。一瞬だけ雲が切れて、彼の背後から西陽が差す。目を射る強い光に、僕は咄嗟に手を掲げた。半分隠れた視界の中、濃い影になった先輩が続ける。

「お前も、とんだ貧乏籤を引いたな」

 どこかで聞いたセリフだった。確か、言ったのは風岡さんだ。

「……やっぱり、聞こえてたんじゃないですか」

「あいつは声がでかいからな」

 悪びれずに答えられ、僕はため息をついた。

「どうして、さっき僕の名前を呼んだんですか? ――あんたがにとっての疫病神だってんなら、説明がつきませんよ」

 先輩が虚を突かれたように目を瞬かせた。

「いきなり雑になった」

「そりゃあね。利用するつもりだったとか、やっぱり役不足だった、みたいなこと言われりゃ機嫌の一つも悪くなりますよ。それで、答えは?」

 促すと、彼は「うーん」と小さく唸った。どうも、自分でもよく分かっていなかったらしい。

 彼が真に自分の跡を僕に継がせようしていたのなら、名前を呼んで忠告する必要はないのだ。

 わざわざ、種明かしする必要も。


 最後の最後で、この人は踏み切れなかったのだろう。


「そこまでやる必要がなくなったから、かな」

 ようやく返された答えに、僕は自分の顔が険しくなるのが分かった。

「必要って……何の?」

「お前に代わってもらわなくてもいいってこと」

 要領を得ない回答だ。喋りながら、先輩が左手の指輪を外す。

「多分、もう十分なんだよ」

 鴉の鳴き声が再び響いた。さっきより近い。

 信号が再び黄色に変じる。

 ゆっくりと。

 引き伸ばされた時間の中で、先輩が手の中の指輪にため息を落とした。

「最初はな、同じになればと思ってたんだ。でもうまくいかなかった。だったら、返してもらうには対価が必要だろ? でも、俺はもうその価値すら無くしていた」


 ――あの人は、になりたかったんだと思う?


 光葉の言葉の意味が、ようやくわかった。

 ああ、この人は怪異ばけものに成りたかったのだ。そうして、あちら側に行きたかったのだ。多分、ずっと。

 先輩が顔を上げて僕を見る。その目は、ひどく凪いだものだった。

「やるよ。餞別だ」

 微笑した先輩が、僕に向けて指輪を放った。緩やかな弧を描いた銀のリングが、夕日の反射を受けて輝く。

 信号が黄色から赤に変わる。

 伸び切った時間がブツリと切れ、元の流れに戻るまでの刹那の間。反射的に手を伸ばした僕の中で様々な思考が交差する。


 怪異はどこに行くのだろう。

 役目を終えた怪異は。あるいは、あまりにも踏み込みすぎて怪異になりきれなかった人間は。

 切り抜かれた世界によって存在を許されていた空白が、その世界を否定した時は――何を代償に求められるのだろう。

 どうやって辻褄を合わせられるのだろう。


 思考の収束とともに、指輪が僕の手に収まる。その、直前。









 猛スピードでハンドルを切ったトラックが、制御を失って突っ込んできた。僕の、すぐ隣に。


「は……?」

 風圧。排気ガスの煤けた匂い。重くて柔らかいものを叩きつけたような音。急ブレーキの甲高い悲鳴。

 歩道に、幾本もの黒い筋が刻まれる。ゴムの焦げる嫌な匂いに、ようやく僕は我に返った。

 慌てて周囲を見回す。

 恐らくは、右折優先が終わりかけだったので慌てたトラックが、無茶な右折をして曲がりきれなかったのだろう。

 幸い、。車も自転車も人も、誰も巻き込まれなかったのは奇跡と言って良かった。

 運転席側のドアが開き、運転手がまろび出てくる。五十前後の初老の男だ。一見したところ怪我はないようだが、ひどく取り乱していた。

「あ、あ、ああああ……!」

 男は意味の取れない呻き声を上げながら、前方のタイヤを覗き込んだ。その目が、大きく見開かれる。明らかに正気ではない。急いで駆け寄った僕は、彼に声をかけた。

「大丈夫ですか。しっかりして下さい」

「俺、俺……人を、人を……」

 それ以上は言葉にならない男の視線を追って、僕もトラックの下部に目を走らせる。だが、そこには猫の子一匹挟まってはいなかった。ガタガタと全身を震わせて膝をつく男に、僕は目線を合わせてできるだけ優しく語りかける。

「大丈夫ですよ。近くには、僕以外誰もいませんでした。あなたは誰も殺していません」

「そんなはずあるかよ! は、はっきり感じたんだ! ドジャッて音を聞いたんだよ! 犬猫じゃねぇ、もっと大きい――鹿とか猿とか、ああいう。や、山でもねぇのにそんなのいるわけねぇだろ! 人だよ! 俺は、人を轢いちまったんだ!」

「落ち着いて下さい。落ち着いて。ほら、タイヤには何も付いていませんよ。血痕一つ落ちていない。誰もいなかったんです。それより、どこか痛むところはありませんか?」

 徐々に落ち着きを取り戻してきた男性が、僕の問いに小さく頷いた。

「大丈夫なら、写真を撮って車を移動させましょう。とりあえず、あそこの駐車場に動かして下さい。会社の人には、僕からお話をさせて頂きますから」

 ちょうど良かったと言うべきか、トラックが鼻先を突っ込んでいたのは運送会社の駐車場だった。

 騒ぎを聞きつけ、社屋からも幾人かが姿を見せる。

 ぎこちなく頷いた運転手が動き出すのを確認し、僕も中腰になっていた身体を伸ばした。

 と、いつの間にかタイヤの近くに一羽の鴉がいることに気が付く。どこにでもいる、ただの鴉だ。だが、その動作が妙だった。

 まるで見えない何かを啄むように、嘴を上下に動かしてタイヤの隙間を執拗につついているのだ。

 僕の視線に気づいた鴉が頭部をもたげる。


 ――カァ


 ただ、鳴いただけだ。

 なのに、それがひどく不吉に感じて僕は思わず一歩後ずさる。

 その時、靴の踵が何かを弾いた。

「ん?」

 硬質な音を響かせたそれは、指輪だった。運転手のものかと思ったが、明らかに指の太さが違う。径が小さすぎて彼の指に入るはずがない。

「なんでこんなところに……?」

 拾い上げて眺めてみる。波のような模様が入っただけのシンプルなデザインは、どこかで見た覚えがあった。有名なブランドのものなのかもしれない。それで無意識に目に入っていたのか。

「落とし物……?」

 手がかりがないかと、指輪の裏側を見る。結婚指輪のようで、文字が彫られているのが見えた。『K』という文字と二十年以上前の日付。


 やはりどこか既視感を覚えるが、僕は思い出すことができなかった。


                    ――特殊資料調査室第一部・了

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