第16-5話 怪異の殺し方⑤
今年の夏はことさら短かったように思う。あるいは、体感時間が早かっただけか。
室長の言葉通り、僕は先輩とは引き継ぎ以外では会わなくなり、新規の案件があったとしても別の人と組む形になっていた。一番多いのは生口さん、次が神坂である。
神坂とは、何となく気まずくてあれ以来先輩の話題を出していない。
人間の慣れとは恐ろしいもので、今では僕の中でそれが普通となり、一年前に先輩と経験したものは遠いものへとなりつつあった。
ただ、繋がりが全く無くなったのかと問われれば、答えはノーだ。
この半年ほどの間にも僕らの霊感テストの数値は変動を続けていた。二ヶ月ごとに受ける試験の結果は、相変わらず真逆のベクトルに動いている。僕の数値は一時期ほど急ではないが上がり続けているし、先輩は一つの項目を除いて下がり続けているといった具合だ。
十月になる頃には、僕らの数値はほぼ全ての項目において逆転していた。
「お前に謝らないといけないことがある」
先輩がそう口にしたのは、十一月も終わりかけの頃だった。
ちょうど、最後の引き継ぎが終わって帰る途中の道すがらのことである。
突然の宣言に、僕は少し驚いて隣に並ぶ黒い姿に目をやった。
「急にどうしたんです?」
冬の日暮は早い。昼下がりと言うには少し遅く、夕方というには早いくらいの時間だったが、すでに辺りは薄暗くなっていた。朝からの曇天も影響しているのだろう。
泣き出しそうな重苦しい灰色の空の下、先輩が短く答える。
「霊感テスト」
「――ああ」
半ば予想していたことだった。
ここ数ヶ月で彼と僕の間にあったことなど、たかが知れている。その中で、彼が気にしそうなことなどそれくらいしか思いつかない。
「何か心当たりが?」
前方で赤い光を放つ歩行者信号をぼんやりと見ながら、僕は問いかけた。中途半端な時間ゆえか、それとも単に場所の問題か。横断歩道の信号を待っているのは僕ら二人だけだった。
もっとも、人の気配がないわけではない。物流倉庫でもあるのか周囲には大型トラックがやたらと多く、賑やかと言っても良いくらいだった。
「俺よりお前の方に適正があった、それだけだ」
「適正」
馬鹿みたいに繰り返す僕に、先輩は小さく頷いた。
「そう。名前のない怪異になる素質」
この人は、何を言っているんだ。
俯く彼の口元が、微かに吊り上がる。目元は前髪に邪魔されて見えない。
「それって、このままだと僕が先輩みたいになるってことですか? そんなこと」
「お前、最近誰かに名前呼ばれた?」
僕の言葉を遮って、先輩が言った。
「ありますよ」
反射的に答えたものの、自信はないし即座に思い出せない。だが、あったはずだ。
そうでなくてはならない。
「それっていつ?」
「それは……」
先輩は口籠る僕の答えを待っていたが、やがてフッと笑みをこぼした。
「冗談だよ、冗談。本気にするな」
軽い調子で言われ、僕は安堵した。そして心の余裕ができると、少し腹も立ってくる。普段はこんな冗談を言わない人なので尚更だ。
「止めてくださいよ。先輩が言うとシャレにならないんですから」
「悪い悪い。――でも、半分は本当だぞ」
笑いながらの謝罪に混ざった本気の影に、胃の辺りがひやりとする。
「山本」
確かめるように僕の名を呼んだ先輩が、こちらを見上げる。
「お前は、ちゃんと自分の名前を覚えとけよ」
どういう意味だと問いかけようと彼の顔を正面から見て――僕はそのまま固まってしまった。
見慣れたはずの彼の顔に、ひどい違和感がある。雑踏で目を離せばそのまま見失いそうな平凡な顔立ち。ここではないどこかを見ているような表情。
違和感の正体は、考えるまでもなくすぐにわかった。
――この人の目はこんなに暗い色をしていただろうか。
「先輩?」
「少し、狙っていたところはあるんだ」
ゆっくりと、笑みを消した先輩が目を伏せた。そのまま、己の右側に伸びる横断歩道に顔を向ける。僕らが待っているのとは逆の向きだ。ちょうど、横断歩道で青信号が点滅を始めたところだった。動画のスロー再生のように、僕の中で世界の全てが緩慢に流れていく。どこかで一声、鴉が鳴いた。
「……え?」
「わからないか? 俺はお前を利用していた」
自分の呆けた声が、淡々とした先輩の声に塗りつぶされていく。
「『お前は俺の次に値が低い』から。覚えてるか?」
僕の方は見ないまま、先輩が言った。
覚えている。去年の秋、先輩の声で妙な電話がかかってきた時に言われた言葉だ。自分でも顔が強張るのがわかった。
「覚えてますよ。確認してませんでしたけど、あれって耐性値のことですよね?」
「正解」
わずかに先輩の声が柔らかくなる。例えるなら、生徒に望み通りの回答を返された教師のような声だった。
その項目は、唯一彼の中で変わらなかった値のもので、そして僕との関係が逆転しなかったものだ。
「認識・接触した怪異に対して、精神的・肉体的にどれほど耐えれるか。その限界値」
耐性値の説明を繰り返した先輩が、僕の方を振り返る。
「この説明、俺はあまり好きじゃないんだ。意味が狭義にすぎるし、足りない。適切じゃないんだよ」
大通りの信号が黄色信号を経て、右折優先の表示に切り替わった。
僕らの目の前を何台ものトラックが通過していく。
「侵蝕耐性とでも言うべきなんだよ、本来は。あるいは変容限界率でも良い。要は「連れて行かれにくさ」だ。もう少し文学的な表現をするなら「覗いた先の深淵に、己はどれだけ覗かれにくい」か」
分かるような、分からないような話だ。ただ、一つだけ予感めいた確信がある。
僕は、彼の話を聞かないといけない。
「名前のない署員――その怪異を僕に継がせようとしたってことですか? 最初から?」
「そうだよ。でも、お前じゃ少し足りなかった。……だったら、別にこのままでも良いかと思ってたんだけど」
そこで先輩は顔の向きは変えないまま、目を逸らした。どこか遠くを見るような表情で、視線だけが僕の脇をすり抜けて彼方に注がれる。
「手が、届きそうになった」
ぽつりと呟かれ、僕の脳裏にフラッシュバックしたのは濃い夜の森の匂いだ。
乱暴に置かれた陶器の音。
進んだ時計。
いや、違う。もしかしたら、もっと前。
音さえ吸い込んでしまいそうなほどに真っ白く浮き上がる夏の日差しと、鮮やかな花束。
――みんなで選んだのよ
あどけない少女の声が持つ違和感。誰が最初に
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