第16-4話 怪異の殺し方④

 僕の不安をよそに、しばらく新規の案件は入れないように努力するから、とあまり当てにならない言葉で締められ、僕は室長室を後にした。

 正面に掛かっている壁掛け時計を見ると、すでに勤務時間を大きく過ぎている。自分が思っていたよりも長く話し込んでいたようだ。急ぎの案件もないし、今日はもう帰ってしまおうか。

 そんなことを考えながら自分のデスクに向かうと、左手から声を掛けられた。


「ずいぶん長かったですねー」


 声の方に顔を向けると、机に突っ伏した姿勢で顔だけをこちらに向けている女性と目があう。

「神坂、まだ残ってたの?」

 僕の言葉に、女性――神坂はわざとらしく唇を尖らせた。

「なんですかあ、その反応。嫌いですけど、必要なら私だって残業するくらいには真面目なんですぅ」

「残業は良い文化じゃないよ。それに、神坂が真面目なことくらい知ってる。って、そうじゃなくて……」

 逸れそうになる話題に、言葉を切った僕は室内をぐるりと見回した。この時間にしては珍しく、神坂以外は誰も残っていない。普段、彼女と組んでいる生口さんも同様だ。

「他に誰もいないからさ。それに生口さんは? 君を残して帰ったの?」

 神坂がパタパタと顔の前で手を左右に振った。

「今日は別行動ですー。っていうか、ここんところずっとですね。例の組織編成の影響で、私があぶれてるんで」

「ああ、なるほど」


 この部署で一番経験が浅い彼女のペアはどうするのか。先ほど室長とも少し話題にしたところだ。

「今の私の仕事は、過去の資料の整理です。急ぎじゃないから帰っても良いんですけど、キリが悪くてぇ。っていうか、特殊資料調査室ここの資料ってば整理してもしてもキリがないんですけどお?!」

 文句を言う彼女の長い茶髪の下には、不満を表すようにプリントアウトされた紙が何枚も散乱している。頭頂部近くにうず高く積まれたファイルの山々は、資料室から持ち出したものだろうか。一部の山はすでに雪崩を起こしており、隣の僕のデスクにも被害が広がっていた。

「この案件終わったー、と思ったらまた何年かしたら類似案件出てくるしぃ……! しかも、微妙に他の案件と複合してたり、もっと昔の案件が関係してたりするし。時間と場所が広がるだけに飽き足らず、まったく別の時系列とか場所からの事案がワープしてブッ込まれることもあって、正直、手がつけれないんですけどお!」

 空中で両手の指をわきわきと蠢かせる彼女からは、悲壮感すら滲み出ていた。神坂の言うこともわかる。というか、彼女の文句こそ資料整理が進んでいない遠因なので、ある意味でもっともな抗議だと言えた。

「三十年近くある部署だからね。色々あるんだよ」

「その間の資料整理がほとんど進んでないのは、さすがに怠慢だと思いますが?! いくら私が半人前で振る仕事がないからって、これはあんまりですよぉおお!」

 足をバタバタと動かして不満を垂れ流してはいるが、手を抜くつもりはないらしい。だからこそ、これ幸いと資料整理を頼まれたのだろう。

「そう言うなよ。僕だって同じように中途半端な時期はあったけど、そういう仕事は渡されなかった。きっと、神坂なら手を抜かずにやってくれるから任されたんだよ」

 誰も精度を確認できないような仕事だが、やらないといずれ困ることになることは明白である。ヘタな人間には任せられないが、その点神坂なら安心というものだった。間延びした喋り方や派手な外見で誤解されることもしばしばあるが、彼女の仕事の正確さと責任感の強さは誰もが認めることだ。

 虚空を睨んでいた神坂が、再び僕の方へと視線を向ける。

「説得力ないなぁ。そんな時期、本当にあったんですか?」

「あったよ。まぁ、僕は体力だけはあるからそっち方面に連れて行かれることの方が多かったけど。それ以外は先輩の金魚のフンやってるだけだったし」

「本当にそれだけなら、後を任されないでしょ」

 ぼそりと言われ、僕は目を瞬かせた。

「知ってたんだ」

「噂で、だったんですけど。本当なんですね」

 そこで彼女は、僕とは逆方向に瞳を動かした。パタリ、と白い手が広がった髪の毛の上に落ちる。

「――あの人とは、あんまり関わらない方がいいと思います」

 唐突に言われ、真意を掴み損ねた僕は言葉を失った。だが、そもそも難しく考えるような意味を、彼女の言葉は孕んでいないのだと気が付く。

「どうして?」

「うまく言えないんですけど、お互いによくない気がして」

 答えになっていないと気がついたのだろう。僕と目は合わせないまま、早口で神坂はまくし立てる。


「眼鏡にした時、たまに人の顔が普通に見えるって言ってたじゃないですか。今もかは知りませんけど。それって、何か共通点があるんじゃないですかね。話題だったり、話している場所だったり、時間だったり。あるいは、一緒にいた人そのものかもしれません」

 僕は、目を逸らしたくなるようなあの忌まわしい日々の記憶を慎重に思い返してみた。その中で、異形の貌が人に戻った場面をさらっていく。


「……話題にも場所にも時間にも、特に共通点はないと思う。人だって、ばらばらだよ。何なら、雑踏でも普通の顔の人は見つけられた」

 取り調べを行った人間が自白したのを境に人間の顔に戻ったこともある。

 知っている人、知らない人。

 初めての場所、よく行く場所。

 朝、昼、夕方、夜。

 悲しい話題、辛い過去の話、深く踏み込みにくい話題。

「……ん?」

 ふと、引っかかるものを覚えて僕は眉を寄せた。

「そういえば、馬鹿話とか楽しい話題の時には見たことない気がするな」

「それですよ」

 いつの間にか、神坂は再び僕の方を見ていた。

 濃い茶の瞳が、瞬きもせずに下から僕の顔をじっと見つめている。


「人の外側は違うかもしれません。けれど、構成する精神なかみは同じですよ」

「と、いうと?」

「感情」

 薄桃色の唇から、平坦な声がこぼれ落ちる。

「喜怒哀楽のどれかは分かりません。……いえ、楽しい場で見なかったということは、喜と楽は除外すべきでしょうね。では、哀か怒か。あるいはもっと別の、複雑なものかもしれません。自尊心や恥辱、嫉妬、罪悪感、優越感。人を構成するものなんて挙げ出したらキリがありませんから」

 いつもの呑気な喋り方とは異なる、淡々とした声だった。彼女らしくない、不安を煽るような言い方。

「神坂?」

「すみません。でも、少し考えてしまって」

 目を伏せ、彼女は再び僕から目を逸らした。


「仮に、そういった感情を感知することで他人の顔が切り替わっているのだとしたら……いつも人の顔をしている者は何を考えているのだろう。って。そう、考えてしまって」


 彼女の言う、いつも人間の顔をしている者。そこに当てはまる人物は一人しかいない。


 先輩だ。

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