第16-2話 怪異の殺し方②
音無さんの言葉に何と答えたか、正直覚えていない。
ぼんやりとしたままエントランスに向かうと、ガラス扉越しに雨が降っているのが見えた。
大粒の雫が斜めに走っているのが離れていてもわかるような、凄まじい勢いの雨だ。さっきまでは頼りないなりに日の光が差していたのに、今となっては嘘のように暗い空が広がっている。ゲリラ豪雨、というやつだろうか。
雨宿りも兼ねてしばらく院内で時間を潰そうと考えた時、灰色の空に一筋、白く太い光が走った。少し遅れて、空間そのものが震えるような轟音。
小さな悲鳴に室内へと視線を転じれば、子供が何人か泣き出していた。母親らしき女性達が、玩具や飴玉を与えてあやしている。
この雷で今年の梅雨は明けるかもしれない。何の確証もなくそんなことを考えながら、僕は相変わらず暗くけぶる外へと視線を戻した。
と、モノクロの景色の中に鮮やかな色彩が現れる。
赤。
まるで傘回しのように、くるくると回転しながらこちらに向かってくるのは、一本の赤い傘だ。
柄も模様も入っていない、無地の真っ赤な傘。そこだけが世界から切り取られたかのような、あるいは別の時間が流れているかのような。そんな、気持ちの悪さを感じてしまう。
傘は――正確に言えば、傘の持ち主は真っ直ぐにこちらを目指してくる。ぼやけている上に俯いているので自信はないが、どうやら女の子のようだ。
白いワンピースに、黒いカーディガン。その色合いが、ますます傘の色を引き立たせる。
再びの白光、響く遠雷の音。
僕が顔をしかめている間にも、女の子は踊るような足取りで近づいてきていた。
玄関ポーチまで辿り着いた彼女が、顔を上げる。
ガラス越しに目があい、僕の喉から小さく「あっ」と上擦った声が漏れた。
丁寧に編み込まれた黒髪と、利発そうな大きな瞳。片目だけしか見えないよう、斜めにカットされた前髪。光葉叶子だ。どうして彼女がここに。
にこり、と光葉が笑った。
傘を畳み、雨粒を払い落とした彼女は玄関の泥よけマットで丁寧に靴の泥を拭う。その間、視線は一度も僕から外れなかった。僕も同様に、彼女の目を見つめ返す。正確に言えば、視線を外せなかっただけなのだが。
赤を引き連れた白黒の少女が、自動ドアの前に立つ。
僕と彼女を隔てていたガラスの膜が左右に分かれていき、雨の匂いと湿った空気が一気に空間を侵食した。
生ぬるい空気の中で、光葉が口を開く。
「こんにちは」
彼女の背後で、再び自動ドアがするすると閉ざされていく。
「……こんにちは」
ドアは閉まったはずなのに、室内にはまだうっすらと雨の匂いが漂っていた。彼女が連れてきたから残っているのだろうか。
傘立てに傘を押し込んだ光葉が向かってくる。彼女の歩幅であと一、二歩といった間を空けて僕は彼女と対峙した。
「お兄さん、今日は一人なのね。どこか悪いの?」
「別に、検査だよ。君こそどうしたの? 学校は?」
「私は友達のお見舞い。学校は創立記念日でお休みなの」
お見舞い、という割に彼女は手ぶらだった。身につけているものといえば、スマホと小銭くらいしか入らない小さなポーチだけである。
「食べ物は食べれないのよ。それに、花も見れないの」
僕の考えを読んだかのように、光葉が答える。
「こちら側のものには触れないの。だからお喋りするだけ」
ああ、なるほど。あちら側のモノなのか。
妙に平坦な思考が、彼女の言葉足らずな説明を受け入れる。
「この病院にもいるのか?」
「いるわよ。いっぱいいる。だって病院とか学校とか、人がいっぱいいる場所には彼らの
くるくると彼女の瞳が忙しなく動き回る。
白い壁、白々とした光を投げる電灯の埋められた天井、うっすらと靴跡が残る床。
どこにも、何もない。けれど、今なら僕にもわかる。
確かに、何かがいる。
姿は見えないが、その何かも息を潜めて僕の方を見つめているのが感じられた。
自覚した途端、キン、と耳鳴りが頭蓋内で響く。同時に、こめかみが締め付けられるように痛み出した。嫌な汗が全身から吹き出る。
無意識に右手を上げていた。震える指が眼鏡の縁にかかる。
見たい。
浮かんだ強烈な欲求が脳を灼く。食欲と同じような、原始的で抗いがたい感覚。
同時に、理性は「見てはいけない」と警鐘を鳴らしてる。
拮抗した相容れない精神の主張が、指の震えとなって僕の身体に表れていた。何か、小さなきっかけで傾いてしまう危うい均衡。
「ねぇ」
光葉が一歩、僕に向けて踏み出す。
「眼鏡、外さないの?」
その言葉が、拮抗を破った。
僕は震える指に力を籠め――
「外さないよ」
汗でズレかけていた眼鏡の位置を直す。クリアになった視界には、何も映っていなかった。
思い出したように、聴覚が病院の喧騒を拾いだす。
遠ざかった雷に安堵する親子、世間話で盛り上がる老人達。先ほどと何も変わらない、どこにでもある病院の風景が広がっている。
「なぁんだ、つまんないの」
唇を尖らせ、光葉は年相応の顔でむくれてみせた。
「せっかくお兄さんも見えるようになったのに。どうしてそんなつまらない眼鏡なんてかけてるの?」
その質問には答えず、僕は強張った足を踏み出した。一歩、二歩。光葉の横をすり抜け、小雨になった外へと向かう。彼女とはあまり深く関わらない方がいい。
「用がないなら僕はもう行くよ。じゃあね」
「そう、残念。――なら、最後に一つ」
立ち止まった僕の背後で、少女が振り返った気配がした。
濡れて表面が歪んだガラス扉に、白黒のシルエットがぼんやりと浮かび上がる。
「あの人は、何になりたかったんだと思う?」
ツゥ、と一粒だけ流れた雨粒が、彼女の輪郭をなぞって壊していく。ぐにゃりと歪んだ姿に慌てて振り返ると、すでに少女はこちらに背を向けて奥へと駆けていくところだった。
追いかけるには遠すぎる。
中途半端な姿勢のまま固まる僕の脳裏には、彼女が最後に落とした問いかけだけが大きな波紋となってうねっていた。
そして、週明けの月曜日。
僕は先輩が異動することを聞いた。
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