第16-1話 怪異の殺し方①
六月の終わり。夏というには雨が多く、春というには暑すぎる、べっとりとした湿気を纏う梅雨の終わりかけ。
「面談、ですか……?」
「はい」
電話の向こうから返ってきた静かな声に、僕は小さく首を傾げた。
声の主は音無さんである。職場にかけてくるなんて珍しいと思っていたが、挨拶もそこそこに切り出されたのは、四月に受けた霊感テストの結果についてだった。
特殊資料調査室では毎年全員が強制的に受けさせられるこのテスト。他のメンバーはすでに結果を返却されているはずだが、どうも僕一人だけ個別返却されるらしい。
「話すより、見てもらった方が早いと思うので」
電話口でそう告げた音無さんは、少し考えるような沈黙を挟み。
「昨年の秋に受けた試験を覚えていますか?」
と、続けた。
「――はい」
受話器を持つ僕の左手から、ほぼ無意識に薬指が伸びた。撫でたのは、以前はかけることすら予想していなかった眼鏡のツルだ。
去年の秋ごろから、僕は人の顔がおかしく見えるようになっていた。具体的には、人ではなく鳥とか虫とか魚とか、そういった類のものに見えるのだ。
そのことを音無さんに相談に行った時にも、やはり僕は霊感テストを受けていた。平均的だった数値が軒並み上昇していたことは、まだ記憶に新しい。
「もしかして、また数値が上がってたんですか?」
「……まぁ、それもありますね。でも、君の結果だけ見ても特に意味はないとも言えます」
歯切れが悪い。というより、慎重に言葉を選んでいるようだった。電話での説明が難しいと言っていたし、ここで追求する必要はないだろう。
ちょうど、今週は溜まっていた休みを消化する予定である。どうせ暇なので、用事を入れるにはちょうど良い。
「それなら、今週末の金曜はどうですか? その日なら何時でも行けるんですけど」
「ありがとうございます。では、午後二時にお願いできますか?」
「問題ありません」
そして迎えた金曜日。僕は音無さんの勤め先である病院のエントランスにいた。外来受診の手続きはいらないと言われていたが、どうにも落ち着かない気分である。
せめて隅の方で待っておこうと思っていたが、音無さんはすぐに僕を見つけてくれた。こういう時だけは、自分の目立つ身長に感謝したい。
足早に近づいてきた音無さんが軽く会釈した。
「どうも。すみませんね、急に呼び出して」
「いえ、特に用事もなかったので。気にしないで下さい」
僕の返答に、彼は少しだけ表情を緩ませた。あまり感情を表に出す人ではないが、急だったことを気にしていたらしい。
「では、こちらに」
音無さんの先導で案内された部屋は、冬に来た時と同じような造りだった。
角で稼働するエアコン、大きめの白い長テーブル、壁際に積み置かれているものと同じタイプのパイプ椅子が数脚。テーブルの上や窓際に置かれた何かの書類や専門的な書籍の数々。
特にもの珍しいものはない、一般的な事務室である。
だというのに、なぜか嫌な寒気がした。
「とりあえず、かけて下さい」
促され、僕はエアコンの風で冷たくなった椅子に腰かける。
対面に座った音無さんは、脇に挟んでいたノートパソコンを机の上に置いた。パソコンと一緒に持ち運んでいたらしい、病院名が印字された封筒が脇に滑る。窓付き封筒から覗いた検査結果の紙には僕の名前が書かれていた。
「今日は、電話でお話した通り検査結果の返却ですね。それと、結果について少し気になるところがあるので幾つか話させて頂きます」
パソコンを開いた音無さんが、キーに指を滑らせる。カチャカチャという乾いた音の後、彼はモニターから顔を上げた。
「まずは、こちらをご覧ください」
画面に表示されていたのは、何度か見たことがある霊感テストの結果だ。左上の名前は、間違いなく僕のものである。
だが、その結果に僕は目を見開いた。
「え……」
数値が、異常に高い。
霊感テスト。心理学者の村田諭吉と、物理学者のライアン・アビントンが開発した「村田・アビントン式深層内部境界検査」という正式名称を持つこの試験は、霊感を数値化するためのものとされている。
寛容値、怪異耐性、攻撃指向性――見慣れた項目が、見慣れない数値となって僕の脳を揺らした。
僕の表情から、内容の異常さを理解したと考えたのだろう。自分の方にモニターを向けた音無さんは、再びマウスをいじりながら口を開いた。
「普通はね、こんな短期間で劇的な変化することはないんですよ。だから、最初は何かの間違いとか採点ミスを疑いました。そのせいで時間がかかったことについてはお詫びします」
「いえ、それは……全然。それで、これって」
「結論から言うと、検査結果には何も異常はありませんでした。それは正真正銘、君の今の状態を示しています」
答える言葉が見つからない。黙り込む僕の前で、音無さんは再びモニターを半分だけ僕の方に向ける。
「三回分だけですが、結果をまとめたのがこちらです」
画面がスクロールされ、折れ線グラフが表示される。二回目以降から上昇しているそれは、学生時代に見た指数関数のグラフを彷彿とさせた。
「秋以前にもデータを取っていれば、もう少し発生時期が絞れたんですけどね。とはいえ、今回については外堀を埋めることで推測は可能でした」
「外堀、っていうと……?」
「君の結果と反比例して、数値が極端に下がっている人物がいるんですよ」
誰、と明確に言われたわけではない。
なのに、僕はそれが誰かわかってしまった。
「もしかして、先輩ですか?」
「あの人は君と違って二ヶ月に一回の割合でデータを取ってますからね。かなり絞り込めましたよ」
答えになっていない答え。
室内にはエアコンの音とクリック音しかないはずなのに、息が詰まるようだった。モニターの中で、マウスが別のフォルダへと移動する。
「僕が見ても良いんですか?」
「構いませんよ。本人に許可は取ってあります」
クリックされて出てきたのは、僕のと同じように月ごとの数値をグラフ化したものだった。左上には先輩の名前が記されている。
四月、六月、八月、十月、十二月。年度が変わって今年の二月と四月のものもある。音無さんに言われた通り、一つの項目を除いて全ての数値が低下の一途を辿っていた。特に顕著なのは、去年の八月と十月の落ち具合だろう。
他の月の落ち具合が緩やかな分、夏と秋の急下降が不気味に悪目立ちしていた。
「……先輩は、このことを知ってるんですね」
「自分の数値が下がってることは知ってますよ。君の結果については、試験を受けた時点で――というか、君が私に相談に来たタイミングで「上がってるんだろうな」とは言ってましたね」
言われ、僕はここ数日の彼の言動を思い出そうとした。
昨日、一緒に昼を食べに行ったはずだ。あの人、何食ってたっけ。
一昨日、神坂と三人で話してた時に褒めてくれた。あの人、何て言ってくれたんだっけ。
喫煙所に呼びに行った時、あの人は何て答えてたっけ。
あの人、何の銘柄吸ってたっけ。
まるで古いアルバムのように、シーンごとの止まった記憶はある。なのに、そこにまつわる事象が思い出せない。
考えれば考えるほど、「彼」という人間の輪郭が遠ざかっていく。
寛容値。
怪異耐性。
攻撃指向性。
呆然と見下ろした視界の中で、書かれた項目がぐるぐると回る。
どれくらい、そうしていただろうか。
相変わらず冷たい空気を吐き出し続けるエアコンの、ガガッという音で僕は我に返った。
立ち上がった音無さんが声をかけてくる。
「今日はこれくらいにしておきましょう。また、何か分かればご連絡します」
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