第15話 桜の樹の下
今週の頭にようやく満開を迎えた桜が、早くも散り始めている。
車の窓から見えるその光景に、僕は何とも言えぬもの寂しさを感じた。
「桜、もう散りだしてますね」
滞っていた車内の空気を緩めるために、僕はどうでも良い感想を口に出した。
「そうだな」
頬杖をついて窓の外を見ていた先輩が、ぼんやりとした口調で返す。会話が続かない。
道路脇の桜並木から飛んでくる花弁が、対向車に煽られてフロントガラスに一瞬だけ張り付き、また去っていった。
「前も思ったんですけど、たまに東京って忘れそうになりますよね。ここ」
桜並木が切れ、今度は菜の花の黄色い帯が視界を埋めた。花壇の類ではなく、単に道路と歩道の間から元気に茂っている雑草だ。
今、僕らが向かっているのは去年の初夏にも訪れた「首吊りの木」だった。いわゆる自殺スポットというやつで、今までに幾人も首を吊っている。
この木が僕はあまり好きではない。というか、正直言って行きたくない。
去年の、まだ何も視えていない時ですら妙なものを見たのだ。今の状態で行ったら、何を見てしまうかわかったものではない。
そこで、ふと気がつく。先輩は、あそこで何か見たのだろうか。
「先輩」
「何だ?」
僕の呼びかけには答えるが、相変わらず視線は窓の外に向けたままだ。別に不機嫌というわけではなく、心ここにあらずといった方が正確だろう。
年が明けたくらいから偶にぼうっとすることはあったが、その頻度が段々増しているように感じる。
「去年、あそこで何か視ましたか?」
今度は、しばらく答えがなかった。
その間に車は住宅街を抜け、山の方へと進路を向ける。空き地と田畑が増え、人家もまばらな、典型的な田舎の風景が車窓を流れては消えていった。
雲一つない晴天だが、春の日はまだ短い。着く頃にはちょうど黄昏時になっているかもしれなかった。あるいは、それが狙いなのかもしれないが。
「人、かな」
やがて、ポツリと先輩が呟いた。
「お前らはアレを木と呼ぶが、俺にはあれが木には見えなかった」
「だから再調査ですか? その……」
「最後の犠牲者が春だったからな」
言葉を濁した僕の意を汲んだ先輩が端的に告げる。路面の割れにタイヤを取られ、ガタン、と車が大きく揺れた。
最後の犠牲者は五年前の春に、やはりあの木で首を括って死んだ。当時地元に住んでいた高校二年生で、名前は――
「光葉
「ああ、あの光葉叶子の姉だ」
再びガタリ、と車が揺れて僕は口を噤んだ。
それきり何の会話もないまま、車は山を切り拓いて作られた道を進んでいった。ナビが目的地付近に近づいたことを告げたと同時に視界が開け、僕の目にもあの木の姿が飛び込んでくる。遠目でも分かる、立派な枝ぶりをした桜の大木だ。
薄汚れたガードレールの向こうは空き地のようになっており、剥き出しの地肌ににょっきりと桜が生えている様は、やはり少し異様だった。
反対側は山が迫ってきていたが少しスペースがあったので、そちらに車を寄せてブレーキをかける。
「光葉莉子は」
シートベルトを外しながら、先輩が口を開いた。
「ここにぶら下がったまま、二日間も見つからなかったそうだ」
山が近いとはいえ、この道は対向ができる程度には広い。車も通るし、何より見晴らしは良い方だ。なのに、彼女は二日間も見つからなかった。
まるで何かに隠されていたかのように。
不意に浮かんだ言葉に、背筋がうすら寒くなった。
だが、左側から響いた扉を閉める音に、強制的に思考が打ち消される。
隣に、すでに先輩の姿はない。
取り残されたことに気づき、僕も慌ててドアに手をかけた。
◆◇◆◇
外に出ると、唾液にも似た菜の花の匂いが鼻腔を刺激した。恐らくは、ガードレールの隙間を縫って逞しく生えている一群からだろう。
先輩はすでに桜の根元まで行っており、ここからでは垂れ下がる枝に邪魔されてほとんど姿が見えない。
はらはらと舞い落ちる花びらが、わずかに見える隙間すら埋めていきそうだった。
「先輩」
ガードレールを跨ぎながら呼びかけると、ゆるりと黒いスーツが身を翻した。風が揺らす前髪と桜の花に隠されて、赤い瞳は見えない。
「この木の由来を少し、調べてみたんだ」
独り言のように語った黒い立ち姿が、再び僕に背を向ける。近づこうとしたところで、ちょうど桜の木越しに差した斜陽に目を射られ、僕は手を顔の前に掲げて立ち止まった。
指の間から見える景色の中では、雪のように花びらが降っている。周囲の景色ごと黒い背中を
その時、こめかみの辺りに鋭い痛みが走った。
痛みはすぐに引かず、締め上げるようにじりじりと増していく。
この痛みには覚えがある。山――幽霊パトカーを追って入った山での耳鳴りに、少し似ていた。
掲げた手をそのまま額に押し当てる僕の前で、先輩が訥々と語る。
「元は県外の山にあったものを、わざわざ移植してきたそうでな。お前も知ってるだろう? 夏にひどい目にあった、あの山だよ」
ちょうど考えていた場所だっただけに、僕は咄嗟に返す言葉を思いつけなかった。こちらの答えを元から期待していないのか、先輩の口からはさらに言葉が
先輩は振り返らない。
「移植してきたのは、
声が遠くなる。
額を押さえる手に触れた眼鏡がずれて、桜の木がレンズからはみ出した。裸眼で見えたそれに、今度こそ僕はぎょっとする。
そこでは、およそ現実とは思えない狂った光景が展開されていた。
桜の隙間から垂れているのは細い指だ。さわさわ、さわさわと花びらが……否、指が揺れる。
さわさわ
さわさわ
指が擦れ、増える。
いつの間にか、花びらは全て真っ白な死人の指で埋め尽くされていた。
さわさわ
さわさわ
死人の指で構成された、
この人の名前を呼ばないといけない。今、すぐに。
何か確証があったわけではない。ただの直感だ。でも、それは確かな確信となって僕の胸を焦がした。
なのに、こんな時でも彼の名前をやはり思い出せない。
もうすぐ、そこまで出かかっているのに。喉元まで迫り上がってくる名前を、どうしても音にできない。
ざわめいていた指が、不意にぴたりと動きを止めた。
けれど、まったく安心できない。
嵐の前の静けさ、そんな言葉が脳裏を
名刺を出していたら間に合わない。この異形の花から、目を逸らしてはいけない。
一体どれくらい経っただろう。指の花がするすると動いた。
まるで風に吹かれる桜の花のように、自然で澱みない動き。
白い指が、黒い姿を完全に覆い隠す。
その瞬間、頭の中にかかっていた
「――!」
先輩の名を呼んだ声が、指の囁きに飲み込まれる。
もう一度呼ぼうと小さく息を吸った時
桜の花びらが、パッと散った。
「え……?」
呆然と目を瞬かせる僕の前で、先輩が振り向いた。はらはらと、何事もなかったかのようにその背後で白い花が舞い落ちていく。
「どうかしたのか?」
「え……と」
まだ状況が掴めていない僕に、先輩が苦笑する。
「わざわざ俺の名前呼ぶから」
「えっと、いや、あの……あれ?」
もう一度先輩の名を呼ぼうとして、気がつく。思い出せない。
さっきまでは、あんなにはっきりと頭にあったのに。
「いえ……何でもありません。すみません、話の邪魔をして」
「話?」
不思議そうに先輩が目を瞬かせた。
「あの、聖堂学園の理事がこの桜を移植してきたとかどうとか」
正直、話の後半は全く聞けていないのだが。僕の言葉に、先輩が一瞬だけ表情を強張らせた。
「それ、俺が言ったのか?」
「はい」
僕が頷くと、先輩は「あー」とバツが悪そうに目を逸らした。
「すまん、別に隠してたわけじゃないんだ。繋がりはあったが、それ以上は特に続かなくてな。どうしたもんかとは思ってて」
「いやそんな! 別に怒ってるわけじゃなくて、急だったからびっくりしただけですよ」
謝罪を遮って右手を振った僕は、そこで気がつく。さっきまであった頭痛が、綺麗さっぱりなくなっていた。
「ところで、先輩」
「うん?」
花びらの絨毯を踏み、こちらに歩いてきていた先輩が立ち止まる。
「――今度は、何か視えましたか?」
薄暮の中、どこかで帰りを急かすように鴉が一声鳴く。
僕の問いかけに、先輩はただ曖昧に笑っただけだった。
予感がなかったわけではない。
ただ――これが、彼とこの部署で共にする最後の案件になるとは、この時の僕は思ってもいなかった。
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