第13-4話 境界 ー結ー

 湿った土の匂いと、そこから立ち上る重い空気。緑の魔物によって押し込められた静寂。

 夏の死の匂い。


 パンッと乾いた音が一つ鳴った。

「話を戻しましょう」

 柏手を打った音無さんの声で、僕は再び鏡面で埋め尽くされた店内に戻ってきた。「樹がおると楽やわー」と八百目さんは声を弾ませるが、目はどれも笑っていない。

 店内を確認するように、顔の半分を占める眼球の一つ一つがぎょろぎょろと異なる方向に動いている。悪夢として出てきそうな形相にげんなりする僕に構わず、八百目さんが話を進めた。

「樹にも訊かれとるかもしれんけど。君、なんかなった心当たりは?」

 音無さんだけでなく、それは鬼城さんにも訊かれている。結局あの時は話題が逸れてしまったのだが。

「心あたり、と言われても……色々とありすぎて。例えばどんな?」

「せやなぁ、呪われるようなこととか」

 さらりと言われた言葉には既視感があった。どこで聞いたんだったか。


 ――彼、何か呪われるようなことをしましたか?


「あ」

 そうだ。確か、秋の終わりに音無さんが同じようなことを訊いてきたのだ。もっとも、あの時の対象は僕ではなくて先輩だったけれど。

 そして、その直後にあった。おかしなことが。

「変な電話がかかってきたことはあります。あの、音無さんは覚えてますか? 先輩が「風邪」って言って僕に電話かけてきた時のこと」

 音無さんの目つきが鋭くなった。今はもう文鳥の顔に戻っている。

「覚えてますよ。そうか、あの時の……」

「なになに? 初めましての人にもわかるように説明したってえな」

「三ヶ月くらい前に、先輩の声で変な電話がかかってきたんです。僕にしか聞こえない声で、唄みたいなものを一方的に喋ってたんですけど」

「内容覚えとる?」

 僕は首を横に振って否定の言葉を出そうとした。

 そう、覚えていなかったはずなのだ。


「―― 宿世すくせ当屋とうや 山の話を聞きたまえ」


 僕の口から、意思とは関係なく言葉が発された。

 まるで、誰か別の人間が僕の体を乗っ取りでもしたかのように、朗々と声が流れる。

「一数え 春はひこばえ撫で 夏は青鵐あおじの鳴き声を

 神に捧げて舞給え 蒔い給え

 惟神かんながらの道を歩みて

 鴨頭草つきくさの目で莞爾かんじすべし――」


 誰だ、これは。

 顔から血の気が引いていくのがわかる。

 八百目さんがスマホを構えた。録音している。

 声は続く。僕のものであって僕のものではない声が、呪いの言葉を紡いでいく。


 「―― 慧眼えげんの吾子よ じんの願いを聞きたま

 つ数え 秋は茘枝れいしぎ 冬はかんじきの跡を

 仏に供して咲き給え 裂き給え

 三千世界を追儺ついなして

 鬼芥子おにげしの首薙ぎ削ぐべし――


 かくて浮かる世にはなむけを」


 そこで、ようやく僕は解放された。心臓がうるさいくらいに鼓動を刻んでいる。


「なるほどなぁ」

 録音を止めた八百目さんが笑みを含んだ声で呟いた。

「君は使われたんやね。趣味悪う」

 声のトーンに反して、目はちっとも笑っていない。

「思ったより手強いし、どれにしよっかな」

 人差し指が店内をなぞる。一回、二回。三回目でようやく細い指は静止する。伸ばされた手が近くにあった眼鏡を掴み、音無さんに渡した。

「樹、これウチだけやったら無理やわ。君も貸したってえな」

「……私ですか」

「そそ、君の方が得意やろ。そーいうの」

 音無さんが大きくため息をついた。それから、眼鏡を僕の顔にあてがって「ふむ」と首肯を一つ。

「まあ、似合ってはいますね。君、デザインはこれで構いませんか?」

 音無さんが掲げたのは、どこにでもある四角いフレームの黒縁眼鏡だ。特にこだわりはないので、僕は頷いた。

「はい」

「わかりました。では――」

 すう、と息を吸う音が静かな店内にこぼれ落ちた。

「この眼鏡は、君を如何なる呪いからも守ってくれる」

 それだけだった。

「どうぞ」と渡された眼鏡は、さっきとどこも変わっていないように見える。

 拍子抜けして眼鏡を受け取った僕に、八百目さんが面白がるように「かけてみい」と言った。

 半信半疑で目の前に眼鏡を持っていく。やはり、どこからどう見ても普通の眼鏡だ。裏から見ても、表から見ても変わったところをはない。

 だが、レンズ越しに八百目さんを見た僕は、危うく縁から手を離しそうになった。


 細い目、細い顎。肩のあたりまで伸びた色素の薄い髪。

 性別や年齢は判然としないが、そこにいる八百目さんは人間の顔をしていた。


「どお? ちゃんと君の望んだ世界が見えとる?」


 八百目さんが首を傾ける。目が細くて笑っているように見えるので、むしろ今の方が本心が見えない。

「……大丈夫みたいです」

「もう樹も文鳥やない?」

 後ろを振り返る。仏頂面の音無さんと目があった。人の顔をしている。

「はい」

「あそー、ほなら良かったやん」

「あの、何をしたんですか?」

 細い首を左右に振る八百目さんに、僕は問いかけた。

「さっき言ったやろ。人は他人と話す時に、無意識に己の世界を変容させてるって。まー今回はウチだけやと難しいから、樹の言葉も借りたけど」

「あなたと音無さんの言葉で、僕の意識が変わったから見え方が変わったてことですか? そんなの」

「馬鹿げてる?」

 八百目さんに先を越され、僕は言葉に詰まった。

「君は特殊資料調査室あそこにおる割に、ほんであんな人の傍におるのに、頭硬いんやなあ。要は催眠術みたいなもんやって考えたらええんやって。もっと乱暴に言ったら錯視でも錯覚でもええわ。君みたいなんは、言霊とか呪いとか間に挟むからわからんようなるねん」

 会った時と同じように下から覗き込んだ八百目さんの口が吊り上がる。


「世界は君が思っとる以上に単純で複雑やよ?」


「何だか騙されている気分です」

「そうやよ。ウチらは君を騙してる。でも騙したことで君は求めるものが手に入った。それでええやん」

 そういうことではない。彼の言っていることは、理解しようとすればするほどよくわからなくなっていく。結論から遠ざかっているのか、近くなっているのか。はたまた言葉遊びをしているだけなのか。付き合いきれない、とばかりに音無さんが背後でため息をついた。

「人は嘘をつくし、騙される生き物や。時には自分で自分に騙されるほどに、な」

 僕に対して、というよりも独白に近い言葉だった。あるいは、もしかしたらこの人も自身を騙しているのかもしれない。

 呆然とする僕に「さて」と八百目さんは嬉しそうな声をあげて袂に手を入れた。出てきたのは電卓だ。

「ほんで、それ買います?」

「あ、はい。それは勿論。……って、これ幾らなんですか?」

 今さらだが、眼鏡のどこにも値段が書いていない。というか、店内のどこにも値札らしきものがなかった。

「嫌やなあ、金銭ゼニなんかで対価払える思っとんの?」

 問われ、思わず硬直する。

 金額ではなく「対価」というのも嫌な響きだ。冷や汗を流す僕に、電卓を叩いていた八百目さんが吹き出した。

「嘘や嘘。君、騙されやすいなぁ。気いつけや――色々込みで八千五百円です」

 掲げられた電卓の表示窓には数字が四桁並んでいる。騙されたことよりも、思った以上に良心的な値段にホッとした。


「君のは、現金で十分な商品やからね」



 笑顔のまま付け足された言葉は、追求してはいけない気がした。

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