第13-3話 境界③

「いきなり意識飛ばしかけるとか、見かけによらず繊細やねえキミ」

 軽い声で意識が引き戻される。

 まるで夢から覚めた直後のような、現実感のない感覚。意識を飛ばしていたのは一瞬のようだったが、目の前に広がる景色と自分の思考がリンクせず、時間も場所も咄嗟にはわからなかった。

「重症やねえ、大丈夫?」

「う、わっ……?!」

 下からぬぅっと覗き込んできた無数の人の目に、僕は裏返った悲鳴を上げた。人の目を持つ『蟲』が、キシキシと顎を鳴らす。多分、笑っているのだろう。時代錯誤な着流しと相まって、ますます現実感のない絵面だった。

「君の目に、ウチはどう映ってるんやろなあ? ああ、まだ名乗ってへんかったな。ウチは八百目シン。眼鏡屋でも表面屋でも、好きに呼んだってえな」

「表面屋?」

「せや。って、樹言ってへんのかいな」

 ぐるん、と首を回したシンさんの文句に音無さんは「聞かれなかったので」と涼しい顔だ。鳥だけど。

「まー、何かってえとな。ウチは君らの見えてる世界を違う風に見せるもんを売ってます。別に難しいことやおまへん。君が見えてる世界に、別の景色を表面テクスチャとして張れるようにするんですわ」

 僕は店の中を見回す。磨き込まれたたくさんの眼鏡。ソレらはまるで合わせ鏡のように僕らの姿を歪ませ、無数に映し出していた。

 僕と、音無さん。そして八百目さん。

 異形の頭を持つ人物がひしめく様は、まるで趣味の悪い騙し絵でも見ているようですらある。たまらず目を閉じ、僕は瞼を揉む。

「……つまり、この異常な視覚を元に戻してくださると。そういうことで良いんですよね」

「そういう言い方は好かんなぁ。何が異常で、何がマトモやなんてウチは知らんで」

 長い触覚を揺らし、八百目さんは唄うように続ける。

「君が見てる世界がおかしいんか。それとも、君が今まで「正常」やと思って見とった世界こそが異常なんか。そんなん誰も判断できへんわ。一人として同じ世界を見てる人間なんておらへんからな。でも、君が元々見えてた世界を望むんやったら叶えて差し上げましょ」

 芝居がかった仕草で一礼され、僕は少しムッとした。そんな出鱈目を言って人の質問を曖昧にしないでほしい。

「みんな違う世界を見てるって、そんなわけないじゃないですか。もしそうなら、僕らは会話すらロクにできませんよ」

「その通り」

 僕の言葉に肯定を返しながら、しかし八百目さんは自論を覆しはしなかった。

「人はある程度同じ認識の元にお互いの世界を成立させとる。なんでか。ウチはこう考える。人は、ってな」

「そんな馬鹿な。じゃあ、僕が見てるこの世界は何だって言うんですか」

 八百目さんが、人より細いくびを傾げた。

「君はナニを見とるん」

「人の……人の顔が、おかしく見えるんです。鳥だったり獣だったり虫だったり。たまに人の顔に戻りますけど」

「おもろ。それもさぁ、君の脳が勝手にバイアスかけて分類わけしとるんちゃうの?」

 きゅう、と八百目さんの顔にひしめく眼球が一斉に細められた。笑っているのだ。

「な、ウチはどう見えてるん?」

「虫、が近いですかね。複眼が人の目になってる甲虫みたいに見えます」

 素直に答えると、八百目さんがげらげらと笑った。実際の顔はわからないが、僕の視界では巨大な昆虫が顎を打ちあわせているように見える。

「やっぱおもろいな。最高やん! 樹のぼんは? 何に見えるん?」

「……文鳥、みたいな鳥ですね」

「えー、なにそれめっちゃ可愛えやん! ええなぁ、ウチも見たいわ」

 八百目さんが再び笑いを爆発させた。あまりにも「文鳥、文鳥」と笑い転げるものだから、鏡面世界に映る音無さんが頭頂部の毛を逆立てて嗜めたほどである。

「八百目さん、あまりふざけないで下さい」

「ごめん、ごめん。だって君が文鳥とか……ウケるわー」

「本人にとっては笑いごとではないんですよ」

 まったくである。僕は心の中で音無さんに盛大な拍手を送った。

 気分を切り替えるように、わざとらしい咳払いを一つした八百目さんがさらに質問を続ける。

「ほな、逆に今の見え方になってもずっと変わらんと人間やった者はいはります?」

 この人は先輩のことを知っているんだろうか。あの人の目に関わっているなら知っている気はするけど、確信がない。

「一人だけ。職場の先輩が」

「ほぉん?」

 無難な紹介だったが、引っかかるものがあったらしい。八百目さんの触覚がゆっくりと上下に動いた。

「彼の勤め先は特調室ですよ」

「あ、そーなんや。もしかして先輩って、名無しさん? ほら、君のお義兄さんの」

 再び、音無さんの頭の毛が膨らんだ。どうもこの話題は彼的には面白くないらしい。

「そうですよ」

「ヘぇー、ほー、ふーん。さよか、君はあの人の後輩か」

「まぁ、はい。お世話になってます」

「因果やねえ」

 両手を袖に入れた八百目さんが、うんうんと頷いた。


「君んとこの先輩の目えな。こしらえたんもウチやねん」

 そういえば、あの人がいつか言っていた。あの赤い左目はコンタクトだと。

 嘘か本当かは知らないけれど。

「ただのカラコンですよね?」

 そうであってほしい、という気持ちを込めた僕の確認に、八百目さんは顎を鳴らした。

「ここで買った以上ってのはあらしまへん。あの人の望む世界はかなり特殊やったし」

「どう特殊だったんですか?」

「死人を見たい」

 答えたのは八百目さんではない。僕の後ろでやり取りを見守っていた音無さんだ。振り向いた僕の視界の彼は、文鳥ではなかった。

「死人を見たい、とあの人は言ったんだよ」

 暗い顔と声だった。まるで、そんなことを望んだこと自体が忌まわしいとでも言いたげな佇まいをしている。

「ちょうど同じ時期やったわ。寒うてかなわんなぁって思っとった年の瀬で」

「三年目だった」

「七年も待てへんかったんやろ。知らんけど」

 八百目さんの軽い声と、音無さんの重い声音が交互に連なる。主語はないが、何の話かはわかった。行方不明者は、七年が経てば死んだことにできる。

「先輩の奥さんがいなくなったのは、今から何年前なんですか?」

「えー、いつやっけ?」と天を仰いだのは八百目さんで「二十六年前です。もうすぐ、さらに一年増えますけどね」と答えたのは音無医師だ。

「もうすぐ?」

「十二月二十四日。あの人がいなくなったの、クリスマスイブなんですよ」


 ――勘弁してくれ


 思い出したのは、掠れた先輩の声だ。暗い夏の山で聞いた、絶望と諦観が入り混じったような疲れきった声。


 ――もう死んでるんだから


 あの時、あの人は何を考えていたんだろう。

 あるいは、何を視たことがあったのだろう。


 ふと、あの山の匂いが。濃厚すぎる緑の香りが鼻先を掠めた気がした。

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