第10話 分岐点

 九月の半ば。秋の足音が聞こえるくらいの頃、神坂の霊感テストの結果が返ってきた。


 霊感テスト。一応、「村田・アビントン式深層内部境界検査」という長ったらしい正式名称を持ったこの試験は、簡単に言えば霊感を数値化するためのものだ。

 開発者は心理学者の村田諭吉と、物理学者のライアン・アビントン他数十名。『怪異に対する認知性、耐性、攻撃指向性その他を含むヒトの立ち位置を多角的に数値化する試験』という、これまた勿体ぶった専門的説明が添えられている。


「寛容値ってのは?」

「怪異に対しての寛容度の高さ――要は、どれくらい超常現象を信じてるかってこと」

「耐性?」

「そういったものを認識したとして、精神的・肉体的にどれほど耐えれるか。その限界値」

「攻撃指向性」

「怪異に対してどれくらい攻勢的か……。ねえ神坂、ちゃんと解説読んで僕に聞いてる?」

 パソコン画面から隣へと顔を向ければ、神坂が小さく舌を出した。

「バレちゃいましたか?」

「そりゃ主任が返却してから、ほとんどすぐ僕のところに来てたらね」

 溜息をついて、僕は体ごと神坂に向き直った。彼女のことだから、何か他に意図でもあるのだろう。そう考えたのだが、今回は単純に雑談の延長のようだ。

「でもこれって、ほとんど意味不明な心理テストみたいな問題ですよねぇ。霊感

 のあるなしとは微妙に関係ないですし」

「しいて関係ありそうなところだと、認知性ってところかな」

「どれくらいでした? ちなみに私は、六十三です」

「……覚えてないけど、そこまで高くはなかったよ」

 百を最大値としたこの項目で、半分以上の値を出す人間は稀だ。僕は確か凡人の域を出なかったと思う。

「え〜、見せてくださいよお」

「別に良いけど、面白くないと思うよ」

 霊感テストの結果は、年度別に電子データで保存されている。フォルダにアクセスして、自分の名前を探し出してクリック。

 結果は十八。平均が二十なので、やや下といったところか。

「うわー、すごい。本当にザ・平均って感じですねえ」

「だから言っただろ、面白くないって。こんなの高いのは――」

 多分、あの人くらいだろう。

 頭に浮かんだのは、僕が普段組んでいる先輩だ。彼はこの部署で唯一と言って良い霊能力者である(この言い方をすると本人は嫌そうな顔をするが)。

 神坂も同じことを考えたのだろう。僕のと違い、綺麗に整頓された隣のデスクに視線をやった。

「そういえば、今日はお休みですか?」

「うん。何か昨日主任に呼び出されて、そのまま定時で上がってたよ。検査がどうとか怒られてた」

「え、あの人怒られるんですか? っていうか、何ですかそのレアシーン。見たかった!」

「怒られるというか、たしなめられる? 病院嫌いなんだよ、あの人」

 いかにも渋々、といった風に帰った昨日のことを思い出して僕は苦笑いした。ふだん飄々として余裕があるくせに、妙にガキっぽいところがあるのだ。

 それでもしっかり締切の近い書類を終わらせていくあたりは、さすがである。

「持病でもあるんですかね?」

「業務に支障をきたすようなら内勤になったりするだろうから、違うんじゃないかな。本人も『病気じゃない』とは言ってたし」

 先輩はけして病弱ではない。どちらかというと年の割に元気すぎるくらい元気だし、体力だってある方だ。

 ふと、以前も「検査」ということを彼と話したことを思い出していた。あれは確か夏の盛り、メリーさんという怪異に関わった時だ。

「もしかして、あの目があるから内勤じゃなくて特殊資料調査室ここなのか……?」

「え?」

 前回は光葉叶子と関わった直後だった。だとすれば、今回は何だ。一番近かった事案は幽霊パトカーだが――

 考え込んでいると、不意に僕のスマホが鳴った。表示を見ると先輩である。タイミングが良い。

「はい」

「失礼、東京警察病院の音無おとなしと言います」

 予想に反して、電話口から流れたのは抑揚のない若い男の声だった。

 面食らったが、特徴的な名前と名乗りですぐに思い出した。夏に先輩の病室にいた医師だ。

 返事をしようとするのを察したかのようなタイミングで、音無医師が続けた。

「名乗らず、そのまま聞いてください。返事はしてもらって結構ですが、私や自分の名前……いえ、誰の名前も言わないように気をつけてください。使われます」

「使われるって……何に、ですか?」

「それは言えません」

「先輩はどうしたんですか?」

「少し話せない状態なので、代わりに私がかけ――え、何」

 電話の向こうでボソボソという話し声が聞こえる。「話せるんですか?」「じゃあ三分だけですよ」という音無医師の声のあと

「今後、俺からの電話には絶対出るな」

 と、先輩らしき声が唐突に告げた。

「先輩、ですよね? どうしたんですかその声」

「風邪だ――それより」

 枯れて擦れたしゃがれ声のあと、思い切り咳き込む音が響いた。どれだけ拗らせたら一日でここまで酷い状態になるんだ。

「ちょっと、大丈夫ですか? とにかく、先輩からの電話に出なかったら良いんですね」

「そうだ。もし、繋がるようなことがあっても絶対に――いいか、絶対に答えるな」

「……わかりました。でも、理由くらいは聞かせて下さい」

「とられたから」

 とられた――盗られた。と、脳内で変換が終わる。

 次に問題となるのは「何を」だ。電話帳のデータとかなら、もうちょっと大ごとになるだろうし、僕にピンポイントでかけてくる意味がわからない。と、なると

「声ですか」

 答えがない。わかりやすい人だ。

「なんで僕なんですか?」

「俺の次に値が低いのがお前だから」

「値?」

 何の、と聞くより前に先ほどよりひどく先輩が咳き込んだ。大きな音が響き、どうやら携帯が落とされたようだと悟る。

「続きは私が。とはいえ、もう大半は聞かれましたね。そういうことです」

 次に出たのは淡々とした音無医師の声だった。そのまま電話を切られそうな勢いに、僕は「待ってください」と引き留める。

「あの、先輩は風邪なんかじゃないですよね」

「なるほど。君は藪をつついて蛇を出すタイプですか。警官向きですね」

 確かにそうかもしれないが、放っておいてほしい。

「まあ良いでしょう。結論から言うと違いますね。私も気になってるので、君が原因を知っていたらむしろ教えてほしいんですが――」

 大丈夫か、この医者。そう考えたのも束の間。彼が放った問いかけに、僕は顔から血の気が引いた。

「彼、何か呪われるようなことをしましたか?」

「呪われ……って。そんな非現実的な」

「現実云々を今さら言いますか。寛容値が低いのも納得です。いや、今はそんなことは良い。現代の呪いは、藁人形みたいな単純なものは稀ですから。例えば……そうだな、呪術師に向けて挑発的なことを言ったとか、結界内で出されたものを口にしたとか」

「――あ」

 脳内で、陶器の触れ合う乾いた音が響いた。


 ――死者の世界の食べ物を口にしてしまえば甦れない。異界のものは毒なんですよ


 ここにはいないはずの男の声が聞こえた気がした。隣にいた神坂が、僕の腕を掴む。薄気味悪そうに辺りを見回す彼女に、僕はスマホを持つ手に力を込めた。

 嫌な気配は、気のせいだとでも言うように一瞬で消え失せる。

 電話口の向こうの物音に、僕は我に返った。

「院内は静かにお願いします。というかやっぱりか。あんた、甘やかしすぎ」

 冷ややかな声は僕に対してではない。

 打って変わって元の感情の読めない声で、音無医師が促す。

「何か思い出しました?」

「関係あるかわからないんですけど。以前、聴取に行った時に妙なことがあって……」

 僕は鳳邸であったことをかい摘んで話した。

「……以上です。あの、すみません。これってやっぱり」

「いや、君のせいではありませんよ」

 先回りされ、僕は口をつぐんだ。少しだけ口調を柔らかくして、音無医師は続ける。

「耐性が低いのをわかっていながら、ちゃんと対策を教えなかった方に問題がある。いずれソコを離れるからといって、何も教えずに守るだけでは人は成長しないし、ただの過保護と手抜きと自己満足だ」

 これも、恐らく僕に向けているようで僕にではない。

 耳の痛くなる正論に、僕は身を縮めた。

「――と、すみません。少し話しすぎました。まあ、私は警察官ではないので好き勝手言えるわけですが。医師の立場で言うなら、あまり仕事を増やさないで下さい」

 では、と電話が切られる。

 僕は、自分と同じように身を縮こませている神坂と顔を見合わせた。

「……聞いてた?」

「ちょっとだけ」

 親指と人差し指を五センチほど離して見せる神坂は、詰めていた息を大きく吐き出した。

「なんか、怖い人でしたねえ」

「うん……そう、なんだけど」

 あそこまでキツく言うということは、よほど腹に据えかねているのだろう。けれど、それは自分の仕事が増えたからというのが理由ではない。

 彼は先輩と僕のために怒ったのだ。

 なら、その怒りに比例して先輩の体調も悪いということにならないだろうか。

 通話の切れた液晶をぼんやりと眺めていると、画面の表示が変わった。


 一拍遅れて、再びけたたましい音が奏でられる。

 画面に出た通知名は先輩のものだ。


「なんだろ、言い忘れかな?」

 ごく自然にそう考えたが、すぐに思い直す。

 ――違う。あの人は電話に出るなと言っていた。

 神坂が怯えたように、僕の手の中で震えるスマホを見やる。

「それ……」

「わからない。でも、電話に出るなって言ってた人がこのタイミングでかけ直してくるなんておかしいと思うよ」

 電話が切れる気配はない。さすがに少し苛ついてきた。というか、この着信音はこんな耳障りだっただろうか。バイブレーションにしても、やけに耳につく。

 無意識に通話ボタンに向かいかける指を、神坂が腕ごと抑えた。

「駄目です、止めて下さい。その電話は駄目です!」

「でも、他の人にも迷惑だし」

「よく見て下さい、私達以外誰も気付いてませんよ!」

 悲鳴じみた神坂の指摘に、僕は弾かれたように室内を見回した。

 神坂とペアの生口さんは主任と何か話している。天根さんは、僕と同じようにパソコンの前で忙しく指を動かしている。僕らに注意を向けている者はいない。


 こんなにもうるさいのに。


 呆然とする僕の手の中で、振動が止んだ。切れたのだろうか。

 視線を下に向けて――僕は動けなくなった。


 通話中。


 真っ黒な画面に浮かぶ文字に、頭までも固まりかける。

 いや、落ち着け。もしも繋がってしまった時のことも言われていただろう。

 切断ボタンを探すが、なぜか表示されていない。電源を押し込んでも薄い機械は無反応だ。


「――いるんだろ?」


 見えない画面の向こう側から響いたのは、予想通りの聞き慣れた声だった。

 神坂が恐ろしいものでも見るようにスマホを凝視している。涙目で口をぱくぱくさせて見上げてくるので、僕は黙って首を振った。

 答えてはいけない。

 僕の顔も相当引きつっていただろうが、通じたようだ。

 デスクの上に恐々と放り出したスマホから目を離さず、僕らはゆっくりと後ろに下がる。

 この一連の不審な動きにも、やはり他の人は無反応だ。

 誰かに声をかけるという考えは浮かばなかった。

 そんなことをしたら電話の向こうの誰か、あるいはに気づかれてしまう。

 電話の主はしばらく何かを言っていたようだが、急に静かになった。

 今度こそ諦めたか。

 またデスクに忍び足で近寄った僕の耳に、歌が聴こえてきた。



 ―― 宿世すくせ当屋とうや 山の話を聞きたま

 一数え 春はひこばえ撫で 夏は青鵐あおじの鳴き声を

 神に捧げて舞給え 蒔い給え

 惟神かんながらの道を歩みて

 鴨頭草つきくさの目で莞爾かんじすべし――


 囁くような小さい声であるはずなのに、どういうわけかハッキリと響く。

 神坂が、立ち尽くす僕を怪訝そうに見上げた。


 ―― 慧眼えげんの吾子よ じんの願いを聞きたま

 つ数え 秋は茘枝れいしぎ 冬はかんじきの跡を

 仏に供して咲き給え 裂き給え

 三千世界を追儺ついなして

 鬼芥子おにげしの首薙ぎ削ぐべし――


 かくて浮かる世にはなむけを 



 それを最後に、急に流れ出ていた音が小さくなる。いや、周囲の音が戻ってきたのだ。

 生口さんと主任の話し声。天根さんがキーボードを叩く軽快な音。

 むしろ今まで、どうして音がしなかったことを不思議に思わなかったのだろう。

 液晶を見ると、すでに通話は切れていた。

 慌てて履歴を遡る。二件続けて然るべきである先輩からのものは、当然のように最初のものしか残っていなかった。

 諦めてスマホをしまいながら、僕は溜息をつく。

「神坂、あの歌の意味わかった?」

「歌?」

 僕の問いかけに、彼女は眉をひそめた。

「……何言ってるんですか?」

「切れる直前に、先輩の声で何か変な歌が流れてきただろ」

 神坂はますます眉を寄せた。

「いいえ。私には何も聴こえませんでしたけど」

 そんな馬鹿な。

 けれど、神坂の表情にはいつもの余裕ぶった笑いがない。

 だとしたら。

 ――あの声は、僕だけに謡いかけていたのだろうか。



 不安は、悪い意味で的中した。

 翌々日に何事もなかったかのように出勤してきた先輩が、顔を合わせるなり謝ってきたのだ。

 悪かった、と頭を下げられて僕は慌てた。

「え、ちょ……止めて下さいよ! 音無さんに言われたことなら、むしろ僕の方が甘えてたわけですし」

「いや、それもあるが――そっちだけじゃない。お前だけが聞いたっていう声の方だよ」

「それなら、別に何もないですよ。不気味だったなとは思いますけど、五体満足で無事ですし」

 実害という点でいえば、先日の峠道の方がよほど恐ろしかった。

「っていうか、もう慣れましたよ。ちょっとやそっとの怪現象くらい平気ですって」

 わざと明るい声を出してみたが、先輩の表情は晴れない。

「お前さ『人を呪わば穴二つ』って知ってるか?」

「? ええ、一応。誰かを呪えば、自分も同じように報いを受けるってやつですよね」

 僕と目を合わさず、先輩が力無く頷いた。

「あくまで可能性の話だが――もし、どうしようも無くなったら俺を恨め」

「それは……どんな可能性ですか?」

 怖いくらい真剣な顔と声で先輩が言った。

「世界の全てを嫌悪する可能性」



 そんなこと、あるはずがないと思っていた。

 けれど僕はこの後しばらくして、彼の謝罪の意味を嫌でも悟ることになる。



 彼と同じ――いや、もしかしたらそれ以上に鮮明に視え、聞こえるようになったのだから。

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