第9-16話 幽霊パトカー ー結ー
後日の、週末でのことだ。
僕はあの山で声を聞いた彼に、久々に連絡をとった。最初は驚かれたが、謝ると「気にしていない」と笑われた。
彼は今でもアメフトを続けているらしい。今度、久しぶりに飲みに行こうと誘われた。
それから美術館を訪れ、久々に心穏やかな時間を堪能する。
否、していた。
「久しぶり。お兄さん、帰ってこれたのね」
真下から聞き覚えのある高い声。
無意識に身体が強張るが、何とか顔を下に向ける。
編みこまれた黒髪と、利発そうな大きな瞳。冷房対策だろう、白いレースのカーディガンを羽織った光葉叶子がにこにこと笑っていた。
「帰ってこれたって……今回も君のせいか」
僕の言葉に、光葉は怒るでもなく困ったように笑った。
「何でもあたしのせいにしないでほしいなぁ。最近パトカーの噂があったお山に、警察の人がたくさん来てたでしょう? だから、きっとあなた達が何かしたのかと思ったの」
「解決はしていないよ。――原因らしきものは発見できたけど、まだわからない」
「そうね。でも、きっともうあの峠にパトカーは出ない」
光葉が首を傾げる。
「お兄さん、嬉しいんでしょう?」
問われ、僕は咄嗟に否定しようとした。だが、出来なかった。彼女に指摘された通り、僕はその件については満更でもなかったからだ。
先輩は「今回は成り行きだ」と言っていたが、僕としては解決に繋がるのはやはり嬉しい。
「あの子たちに関わることは、悪いことじゃないよ。ね、良いじゃない」
逆方向に首を倒した光葉が、笑みを深める。その拍子に覗いた片方だけ青い瞳を見た時、僕は思い出した。
あの橋で見た女性の目の輝きが、彼女の隠れた目と同じだったことに。
「君のその目は――」
「お兄さんは、あの人のことが怖い?」
唐突に光葉に問われ、僕は息を呑んだ。
あの人。
彼女は明確な名前を出したわけではない。それなのに、誰のことを言っているのか僕にはわかってしまった。
「先輩のこと?」
「先輩? ああ、そっか。あなた達はあの人のことをそういう形にしてるんだね。そう、彼のことよ」
――ねえ、怖い?
再び、光葉が尋ねた。
「……僕は」
答えようとして思い出したのは、最初に先輩に引き合わされた時のことだ。
怖かった。
お互いに名乗って、名刺までもらって。
――なのに「よろしくお願いします」の後に呼ぼうとした名前が出てこなかった。
すみません、とひたすら謝る僕に彼は「気にするな」と笑ったのだ。「そういうものだから」とも。
何度も呼ぼうとしたのに、呼べなかった。
名前だけではない。
こうして離れてしまえば、僕は彼の顔すら思い出せないのだ。
身長や体格、服装などの特徴は誰かに伝えることが出来る。けれど、顔が出てこない。
まるでマジックで塗り潰されたように、思い出そうとしてもぼやけてしまう。
それが、とても怖かった。でも。
「……今は怖くないよ」
「そっか。偉いねえ、あたしは怖いよ」
全然そんなことを思ってなさそうな軽い口調で言って、光葉は僕の横をすり抜ける。
「あたし、お兄さんとは趣味が合うみたい。あたしもね、マグリットは好きよ」
またしても唐突に変わる話題。
子供というのはこういうものだったろうか。いや、しかし彼女は来年から中学生のはずだ。
つまり、年には関係ない。これは彼女の性分の問題だろう。
「あの人に似てるわよね」
彼女の白い指が差したのは、さっきまで僕が見ていたものだ。
山高帽を被った男性の後ろ姿が描かれており、隣の厚いカーテンにはそのシルエットがくり抜かれて空が見えている。そんな絵だった。
デカルコマニー。
「王様の美術館」をはじめとする、マグリットがよくモチーフに選んだ顔の見えない山高帽の男を描いた作品の一つだ。
愛おしそうにその絵を眺めがら、光葉は熱に浮かされるように囁く。
「あの人はね、人じゃないの。世界から切り抜かれた空白。長い間動かしていない棚があったら床は日焼けしないから、そこに棚があったことがわかるでしょう? ね、それと同じなの。他の誰かによっていることを証明される存在。日光は世界、本棚が彼。でも、彼という本棚はきっともうないの。でも、あの人を知っている世界が彼の形に切り抜いているから皆そこにいるって錯覚しちゃう。怖いわよねえ」
周りの人間があの人を作っている? 何を言っているんだこの子は。
そう思った。けれど――
怪異は人が作るんだ。
どうして、こんな時に思い出すんだろう。
「ねえ、お兄さんは怪異の殺し方を知っている?」
絵から視線を外した光葉が微笑む。
「とっても簡単なことなの。――あのね、みんなが忘れちゃえば良いんだよ」
軽いステップ。白いカーディガンがふわりと揺れる。
「でも、そんなのは嫌でしょう? あの子達もそうなの。だからたくさん呼びかける。頑張ってね。あたし達も、そっちの方が楽しいわ」
小さな体は、踊るようにして展示場の出口へと滑っていった。
――どういった形であれ、人に覚えていてもらうのは嬉しいものよ?
最後に耳に残ったのは、喜色に溢れた少女の声。
それから、どれくらい立ち尽くしていただろうか。
「あれれ~。奇遇ですねえ」
背後からの声で、僕は我に返った。
振り返るよりも早く、声の主が僕の前に現れる。綺麗に巻かれた薄茶色の髪、薄っすらと塗られたピンクのマニキュアが顔の前で左右に振られた。
「神坂……?」
僕の呼びかけに、神坂がにんまりと笑う。
「そんなに驚かなくても良ーいじゃないですか。私だって美術館くらい来ますよ」
シンプルな白いシャツに派手な柄のロングカーディガン。デニム生地のショートパンツからは白い足がすらりと伸びており、僕は慌てて目を逸らした。
美術館というより、ビーチにでもいそうな恰好だ。頭の上にはサングラスまでのっていた。
普段はスーツしか見たことがないが、こうして見るとスタイルの良さがよくわかる。
「一人なの?」
「これが誰かと一緒の恰好に見えますか?」
己のビーチスタイルを見下ろし、彼女は欧米人みたいに大仰に肩をすくめた。ちなみに、やたらと似合っている。
「スーツしか見たことないからね。悪いけど、今の君の恰好が勝負服かどうかの判断がつかない」
「可愛いですか?」
「え?」
唐突な彼女の問いに、僕は目を瞬いた。彼女はもう一度繰り返す。
「今の私は可愛いですか?」
「いや聞こえてはいたよ。唐突だなって思っただけで」
答えてから、質問の答えにはなっていないと気が付いて僕は付け加えた。
「可愛いというより、綺麗だと思うよ」
神坂の顔が嬉しそうに緩んだ。
「そうですか、そうですか。綺麗ですか……ふふ」
しばらく両頬を手で挟んでニヤついていたが、彼女はよほど気をよくしたらしい。
ピンヒールで器用にくるりと一回転し、人差し指を立てた。
「そういえば、この後暇ですか? 美味しいラーメン屋見つけたんですよぉ」
「突然だな」
「良いでしょ。それとも、中華はお嫌いですかあ?」
「いや好きだけど……」
正直、驚いてはいた。彼女のことだから、てっきり洒落たイタリアンとかに行ってそうなのに。
返事までの
「何か、すっごい失礼なこと考えてません?」
「いや全然。というか……それは僕が一緒に行っていいの?」
「一人より二人で食べる方が美味しいかなと思って」
駄目ですか? と首を傾げられ、僕はぶんぶんと首を横に振った。
「なら良かったです」
言って、神坂がするりと腕を搦めてくる。唐突だが自然な動作に動揺し、反応が遅れた。
頭の中で天使がラッパを吹き鳴らす。
こ、これはもしや――
「ここ、カップル限定の割引があるので。彼氏役お願いしますねえ」
一瞬でも浮かれた僕をおちょくるように、脳内の天使が手にしたラッパを「割引」という字が書かれた垂幕に持ち替えた。いや、期待した僕が悪かったんだ。
「別に良いけど。入る前からカップルを演じる必要、ある?」
「だぁって、センパイ嘘下手そうですもん。慣らし運転ですよ」
文句を言おうとしたが、その前に僕のお腹がぐぅと鳴いた。くそ、正直なやつめ。
「ダーリン、私まだ美術館見れてないの。もう少し待ってくれる?」
言われ、僕はため息をついた。
「奇遇だねハニー、僕も同じことを考えてたよ――このままエスコートしても?」
目を丸くした神坂が、にっこりと笑って腕に込めた力を強めた。
「お願いしまあす」
僕らは、揃って顔の見えない男の前を通り過ぎる。
誰かに似た輪郭だけの存在。彼の前を去る時に、少しだけ胸が苦しくなった気がした。
・
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山から出た原因らしきもの、についても言っておこう。
先輩が風岡さんに伝えた辺り――僕らがパトカーを初めて目撃したあたりの地点――からは、遺体が出たのだ。
おそらく死後数年は経過しているらしい、ほとんどが白骨化した死体。
そう。ほとんど、なのだ。
鑑識が頭を抱えていたのだが、どういうわけか遺体の両腕にはうっすらと真新しい皮膚が残っていた。他人の皮膚などでもなく、はっきりと本人のものと断定できる状態でへばりついた皮膚や脂肪、筋細胞が。
そのくせ、保存に使用されたらしき薬品反応は出てこない。
まるで、ついさっきまで生きて動いていたようだ――と、そう報告書には書かれていた。
「気になることがあるんです」
信号待ちをしながら、僕は助手席の先輩にずっと気になっていたことを吐き出した。
「なんで、パトカーなんだろうって。鳳徹は「自分に馴染み深かったから」って解釈してましたけど。じゃあ、何で他の人の前にもパトカーで現れてたんですか?」
街いく人を眺めながら、先輩が「そうだな」と相槌を打った。
「……これからいう事はただの妄想です。馴染深かったのは、埋まってる方だったんじゃないでしょうか。だいたい、おかしいと思いませんか。あの人、なんで元警察官なのに僕らのこと刑事って何度も間違えたんでしょう」
『神隠しが戻ってくる』。あの時、確かに鳳はそう言っていた。
だが、あれは例えでも何でもなく、本当に戻ってきたからだったら?
心残り、トラウマ――それは『弟を一人にしてしまった』という罪悪感に結び付かないだろうか。罪悪感はあの山に住まう何かを起こす呼び水だ。
弟の姿を借りたソレが、自分を探しにきた『兄』と入れ替わっていたら。そして、あのパトカーはそのことを訴えるために現れていたのだとしたら。
「鳳とのDNA鑑定の結果、そろそろ出るんですよね。もしかして、生きているのは警察官だったっていう兄じゃなくて」
と、そこで重苦しいマーチが車内に流れた。
片手を挙げて僕の言葉を制した先輩が着信ボタンをタップする。
聞き耳を立てる僕の横で、先輩は断続的に「はい」を繰り返している。何かの報告の類だったようで、すぐに電話は切られた。
「あの死体は、間違いなく弟のものだったそうだ」
「え、でも――」
ふー、と大きく息を吐いて先輩は背もたれに身体を預けた。
「死体は嘘は言わない」
ドキリとした。それは、この事件の捜査を開始した時に先輩自身が言っていたことだ。
「世間ではそれが全てだ」
死者の矛盾は誰も聞いちゃくれない。
でも、きっとあの峠でもうパトカーは現れないのだろう。
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