第9-15話 幽霊パトカー・再⑮
橋を渡ってしまうと、そこはもう見慣れた道だった。
林の間にぽつぽつと建っていた民家は少しずつ数を増やし、やがて林は田んぼに変わっていく。夜目にもわかる青田と、蛙の鳴声。
そういえば、あの旧道では虫や鳥の声は全く聞かなかったなということを、今さらになって思い出した。
僕らも橋を渡ってからはずっと無言だったので、その騒がしさがむしろ心地よい。広いが暗い道を五分ほど走ったところで、前方に灯りが見えた。見覚えのある青、緑、白のカラーリング。
これはちょうど良い機会かもしれない。そう考えて口を開こうとしたが
「ファミマ寄るけど良いか?」
と、先輩に先を越された。
「どうぞ。僕もちょうど提案しようと思ってたので」
「そうか」
「そろそろ運転代わらせて下さい。まさか町中で追いかけられることも無いでしょうし、もう良いでしょ?」
「世の中にはターボババアとかいう、公道を爆走する老婆もいるそうだぞ」
「ターボババアはドリフトしませんから、僕の運転でもどうにかなりますよ」
答えると、先輩がちょっと笑った。
田舎特有のだだっ広い駐車場には、当然かもしれないが僕ら以外の人影は無い。
端の方に駐車した先輩は、ふらっと中に入っていったがすぐに戻って来た。入れ違いで僕も店内に入る。
聞き慣れた軽快な入店音楽に、現実世界に帰ってきたありがたさをしみじみと噛みしめてしまう。眠たそうな顔をした店員の「らっしゃーせー」という気の抜けた挨拶すら愛おしい。
店内にもやはり人気はない。店員は、喪服の先輩の後に続けて入ってきた僕に不審そうな目を向けてきたが、つとめて見ないようにした。よくあることだ。それに僕は別に不審者じゃないから問題はない。
自分に言い聞かせ、飲料コーナーに足を向ける。ブラックコーヒーを二本。
レジに行くと店員は相変わらず眠たそうだった。
大学生だろうか。髪を茶色に染めたガタイの良い青年だったが、僕が目の前に立つとぎょっとして見上げてきた。
「でか」と口中で呟いたのが、微かに聞こえた。
聞こえないフリをして千円を出し、商品とお釣りを受け取る。
「あざっしたー」という声を背後に自動ドアをくぐると、鼻先を嗅ぎなれない匂いが掠めた。
匂いの向きに顔を向けると、左隅に設置されていた灰皿の前で先輩が煙草を吸っていた。
さっきコンビニで買っていたのはそれだったのだろう。黒地に金文字で「JSP」と印字されたパッケージを手持無沙汰に弄んでいる背中に僕は声をかけた。
「吸うんですね」
知らなかった、という意味を汲んだ先輩が頷いた。
「勤務中は吸わないからな」
「……そう、ですか」
嘘だと思った。多分、彼はしばらく吸っていなかったはずだ。
だって、僕はこの匂いを知らない。
喫煙者の人間には何人も会ってきたが、彼ら彼女らは皆どこかしらに匂いが残っていた。
だから、きっと先輩が吸うのは久しぶりなのだろう。それが何年ぶりなのか、何十年ぶりなのかはわからないが。
煙を吐き出し、灰が落とされたタイミングで僕は頭を下げた。
「すみません。無神経でした」
「最後のあれなら気にするな。お前のせいじゃない。話を振ったのは俺だし、呼んだのも俺だろうから」
そう言われても、彼の顔をまともに見ることができない。
「あれさぁ……」
灰皿に煙草をおいたまま、先輩がぼんやりと口を開いた。指先では、銀のリングが煙草の火を反射し鈍く光っている。
「嫁だったんだよな。中身は全然違ったけど」
何となく、そんな気はしていた。まさか最後に眼前に現れるとは思っていなかったが――。
と、そこまで考えて僕は思考が止まった。
――彼女の顔だけが、思い出せない。
とても綺麗な人だったことは覚えている。最後に嗤っていたことも。何かを喋っていたことも。
先輩はどうだったのだろうと思って顔を上げて様子を窺うと、どこかに電話をかけているところだった。澄んだ夜の空気は音をよく通す。画面の向こうから、留守番電話のアナウンスが漏れだした。
「――俺だ。例の道祖神の山を掘ってみろ。新道から二十分くらい入ったところが良いかもしれん。面白いものが見つかるぞ」
一方的に言って通話を切る。そのまま何事もなかったかのように煙草を摘まみ上げる先輩に、僕はしばし呆然とした。
「あのう……今の、誰にかけてたんです?」
「秀一」
告げられた名前が誰だったか理解するのに、三秒ほどかかってしまった。
秀一
「そういえば、風岡さんとはどういう関係だったんですか?」
「一時期うちにいた時に組んでただけだ。その時、運悪く厄介なのに当たってな……いや」
そこで先輩は言葉を飲み込んだ。溜息と共に紫煙を空に向けて吐き出す。
「何でもない。それより、お前さっきなんか言いかけてなかったか?」
「あ、ええと」
これを先輩に言っても良いのだろうか。躊躇いはあったが、僕は聞いてみることにした。
「――あの、最後の女の人」
「うん」
「顔、思い出せますか?」
「…………いや。思い出せないな。でも、今までだってそうだった」
淡々とした言葉に、僕はそれ以上何も言えなかった。真夏の夜のぬるい風が一陣、僕らの間を拭きぬける。
短くなった煙草をもみ消し、先輩は「帰ろうか」と告げた。
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