第9-11話 幽霊パトカー・再⑪

 道は一本道だったはずだ。何しろ、僕が座っている助手席側は急斜面で道なんて作れないし、先輩のいる運転席側も地肌が剥きだしの山が聳えそびえ立っているのだから。

 電気を消してUターンする時間はもちろん、道幅の余裕もなかった。

 なら、一体このパトカーはどこから現れたのか。

「クソが、余計な書類仕事増やしやがって」

 頭を振りながらの先輩の罵倒に、僕は「そうか、これも始末書になるのか」と妙に冷静な頭の片隅で考えていた。

 サイドミラーの中でパトカーが加速する。またぶつかってくる気か。冗談じゃない。

「先輩!」

「わかってる!」

 叫び声を合図にしたかのように、車が一気に加速した。古い時代の山道の例にもれず、この道路も幾重にも蛇行している。目前に迫ってくるガードレールに、喉の奥から引き攣った声が漏れた。

 濡れた路面をタイヤが擦り、耳障りな音を響かせる。落ちる――と覚悟を決めた視界が横滑りした。

「お、お見事です……」

「そいつはどうも」

 バックミラーを確認した先輩が舌打ちした。

「ついてきてる」

「え、うわ……」

 見ると、同じように車体を横滑りさせながらパトカーが角からヌッと現れるところだった。

 跳ねた水しぶきがヘッドライトの中に黒く舞い上がる。

 その間にも、再び車は鋭角に突っ込む。内臓が浮くような感覚こそ味わったが、先輩は何事もなく綺麗に体勢を立て直した。

 町中しか走ったことのない僕には無理な芸当である。神坂が言ってたのはもしかしたらこの事かもしれない。

 パトカーはしつこかった。だが、視界が回る度に確実に後ろの灯は遠ざかっていく。

 そして何度目かわからない角を曲がった時――忌まわしい赤い回転灯が消え、ついに完全に見えなくなった。


 一秒、二秒、三秒……。

 心の中でテンカウントを取ったが、現れる気配はない。

 完全に振り切ったようだ。そのことに、心底安堵した。




 ――バン!




 背後から、音。

 何か、平たいものを叩きつけるような音。

 そう、それは例えるならば人の手のような――。


 ――バン!


 また、聞こえた。

 間違いない。何かが、誰かが、リアガラスを叩いているのだ。

 耳鳴りが酷くなる。

 割れるように痛む頭に響くキ――――ンという音に混じって、ぼそぼそという声が聞こえた。

 誰の声かわからない。かろうじてわかったのは、男のものだというくらいだ。

 聞いたことのない声。

 先輩が何か言っている。聞いたような言葉だった。違う、初めてだろうか。これは何度目だろう。

 既視感が酷くなる。

 と、囁きが止んだ。

 ――アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!

「う、うわあっ!?」

 代わりに車内に響いたのは、おかしくて、おかしくて堪らないといったような狂った笑い声。

 男のものなのか、女のものなのか、大人なのか老人なのか子供なのかもわからない、甲高くて一本調子な笑い声。

 たがの外れたような哄笑に合わせて、ガラスを叩く音がさらに大きくなる。その微細な振動が、ここまで伝わってきた。相当な力で叩いているようだ。

 このままではガラスが壊されてしまう。

 そうすれば、笑い声の主アレが入って来てしまう。

 恐怖に駆られ、頭を後ろに向けようと身体を捻る。その視界の中に、白い掌が現れた。


「ヒッ……!」

「振り向くなっつってんだろ!」


 今まで聞いたことのないような声で先輩が怒鳴った。

 ぼやけた視界の端で、薬指に嵌められた銀色の指輪が冷たい光を放っている。側頭部をがっちりと押さえつけられ、物理的に動くことが出来ない僕はその一喝に正気に戻った。

 笑い声はいつの間にか消えている。

「……す、みません。大丈夫です」

 ぎこちなく謝罪すると、先輩は手を離した。掴まれていた顎とこめかみは若干痛かったが、あのまま振り返っていたら多分それくらいでは済まなかったのだろう。

 というか、この人は僕より一回り以上は小さいのに、どこにこんな力があるのか。

「さっきも言ったかもしれんが」

 何ごともなく運転に戻りながら、先輩が言った。

「絶対に、何があっても――。見たら、戻れないと思え。お前も、俺も」

 常にない圧に押され、僕は頷く。その決断を嘲笑うかのように、再び、あの音が響いた。


 ――バン


 しかも今度は一度では終わらなかった。

 間髪入れずにバンバンバン! と叩く音が連続して響く。

 ガチガチに固まる僕に、先輩は「素数でも数えてろ。ちょっとはマシだ」と投げやりなアドバイスを寄越した。

 確かに、この状況で雑談のネタが湧いて出てくるほど僕の肝は据わっていない。

「二、三、五、七、十一、十三、十七、十九、二十三、二十九、三十一、三十七……」

 バンバンという音は続く。いっそう激しく、いっそう近く。

 ……………その時、僕は気が付いてしまった。

 この音は、外からガラスを叩いているのではない。

 中から叩いているのだ。

「~~~~っ」

 それに気が付くのと同時に、ガラスを叩いていた何者かは次の行動に出た。

 バンバンという音が止まる。


 ――ぺたり


 響いたのは、そんな音。

 まるで、ガラスに掌を押し付けたような気持ちの悪い粘着質な音。


 ぺたり


 気のせいではない。

 音は、確かにさっきより近くなっていた。

 僕は想像してしまう。

 人のような姿をした何かが、全裸で窓ガラスの内側に、まるでヤモリのように貼り付いてゆっくりとこちらに近づいてくる様を。

 ぺたり

 音は、すぐ近くまできている。

 僕の左後ろにある、後部座席の窓ガラスまでもう近づいてきているように感じる。

 ふー

  ふー

 荒い息遣い。

 ぺたり、という音がまた響く。

「――正面だけ見ておけ」

 僕は首をひたすら上下させる。素数を数える余裕など、とうに吹っ飛んでいた。

 ぺたり

 足音は、すでに僕のすぐ隣の窓にまできている。

 狭い車内だ。何かが入る隙間なんてないはずなのに、確かに何かがいる。

 興奮して息を切らせながら、じっと僕を見ている。それが、確かにわかる。

 息を吸い込む音が間近で聞こえた。生臭い呼気が、言葉と共に吐き出される。


「――なんで」

「なんでお前なんだよ」


 その声に、僕は大きく目を見開いた。自分の顔から、さーっと血の気が引いていくのがわかる。


「偽善者」


 泣きだしそうな声には、聞き覚えがあった。

 違うんだ。

 そんなつもりじゃなかった……。

 言い訳じみた言葉が頭の中を回る。わかっている、悪いのは僕だ。幾つもの単語が頭の中では浮かび、弾けて消えていく。


 僕が何の反応も返さなかったからか、やがて真横にいた気配はすぅっと消えた。

 気まずい沈黙が、エアコンで冷えた車内を漂う。


「知ってる声か?」

 沈黙を破って先輩が問うた。聞こえていたらしい。

「はい」

「静かにされてると落ち着かん。そんな顔してるくらいなら話してみろ。嫌じゃなければな」


 それに、僕はのろのろと頷いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る