第9-10話 幽霊パトカー・再⑩
くねくねとした山道をパトカーは走る。
雨はますます激しさを増し、ガラスを叩く音は今や轟音と言っても良いほどの大きさとなっていた。
ナンバーを見ようと僕は目をすがめたが、視界がぼやけて数字すら判別できない。
事前に入手した県警所属のパトカーのナンバーと照合したかったのだが、この状態では難しそうだ。先輩もそれはわかっているはずだが、どういうわけかパトカーとの距離は縮まらない。
「先輩、もう少し近づけますか?」
「それなんだがな」
先輩がスピードメーターを指さした。針が示しているのは、道交法を遥か彼方に置き去りにした速度である。
自分で促しておいてなんだが、口元が引き攣るのがわかった。何でこの人はしれっとこんな速度で山道を走っているんだ。
「さっきから一向に距離が縮まらない」
「むしろ速度落としましょう?!」
僕の悲鳴に、先輩が感心したように目を瞬いた。
「なるほど、その手があったな。試してみるか」
言われた時には、すでに前につんのめるような衝撃が身体を揺らしていた。ブレーキをかけられた車体が、急速にその速度を落としていくのがわかる。
けれど、前を走るパトカーとの距離は変わらない。
「……いっそ停止したらどうなるんでしょうね」
「やってみるか? もう一度エンジンがかかる保証はないけどな」
先輩に言われ、僕は慌てて首を横に振った。こんな山の中で、得体の知れない車と置き去りにされるなんて考えただけでも恐ろしすぎる。
たとえ隣に先輩がいたとしても、御免被りたい。
と、そこまで考えて僕の頭に嫌な考えが浮かんだ。
――隣にいるのは、本当に先輩なのだろうか
という、普段なら笑い飛ばすようなくだらない妄想だ。
横目でこっそりと、ハンドルを滑らせる影を見やる。
闇に浮かぶ動物さながらの赤い瞳も、対照的に溶け込むような喪服も、普段と何一つ変わらない。
そのはずだ。
食い入るように先輩の白い顔を見ていると、ガタンと車体が跳ねた。
「なるほど。いつの間にか旧道に、か」
自分に言い聞かせるように呟いた先輩の声に、慌てて僕も前に向き直る。
そこは、さっきまでいた場所とは明らかに違っていた。
ヘッドライトに照らし出されたのは、見慣れた黒いアスファルトではない。茶色い土が剥きだしになった、未舗装の道だった。
土はすでに雨のせいでぬかるんでおり、激しく車を揺さぶりにかかっている。これでは、いつタイヤをとられてもおかしくないだろう。
「ここが旧道ですかね……?」
「新道完成は九七年、それまで使われていたのが旧道だ。そこから考えるとこの道は古すぎる。旧道に入るのはこれからだろうな」
思ったよりも最近まで使用されていたという事実を思い出し、僕は頷く。無駄だろうとは思いつつ、スマホで地図アプリを起動しようとしたが、電源が落ちていた。切った覚えはないのだが。
「あれ……?」
電源ボタンを押したり画面を触るが、真っ暗な画面に変化はない。仕方なく、他に情報はないかと窓外に視線をやったところで
「気を緩めるなよ」
先輩が言った。
「あんまり外には意識を集中するな――もう、入ってる」
葉っぱが車の車体を擦るキィキィという音が近くで聞こえた。
夏は緑が多い為、茂った枝葉が道にまで広がってくるのだ。しかし、獣道は長く続かなかった。
ひたすら前に進んでいると、不意に視界が開けたのだ。
「も、戻った……?」
「いや」
短い否定を返され、僕もすぐに違うと気が付く。
確かに、さっきまでの道と違いかろうじて舗装はされていた。だが、車一台がようやく通れるかといった狭さは変わっていないし、助手席のすぐ傍まで迫ったガードレールを超えた先には急斜面が広がっている。
窓外に視線を向けると、キィン、と耳鳴りがした。
「……っ」
思わず耳を塞ぐが、耳鳴りはマシになるどころかどんどん酷くなる。いまや音は、耳どころか頭の中まで浸食するようだった。
「大丈夫か?」
頭を抱えて身を折る僕の頭上から、先輩の声が降ってくる。その声すら、頭蓋を反響する音に邪魔されてどこか遠く聞こえた。
「気を緩めるなよ」
先輩が言った。
「あんまり外には意識を集中するな――もう、入ってる」
自分の膝に顔を埋めたまま、僕は目を見開いた。
「先輩……」
言い知れない不気味さに背をなでられ、僕は何とか頭を上げる。
「それ、さっきも言ってませんでしたか?」
先輩が、一瞬だけこちらに視線をよこした。不可解そうな表情に、背中がますます冷たくなるのが自分でもわかった。
「『外にはあんまり意識を集中するな』って。さっきも言ってたから」
「お前もか」
先輩が顔を顰めた。
「……というと、先輩もですか?」
「ああ、そうだな。実のところこの会話も何回かした気がしてる」
既視感。
もしかしたら、これもあのパトカーの縄張りに僕らが入った影響だろうか。
――あの山に行かれるなら、お気をつけて。あそこも異界ですよ。
ずきずきと痛む脳内にチラついたのは、鳳の忠告だ。
ここは、僕らの知っている世界じゃない。何が起こるかわからない。
「こういうことは、たまにある」
「そうなんですか?」
「異常環境に置かれたことで過度なストレスがかかった脳が現実に追い付かなくてバグった、というのが定説だ。あるいは本当に時間がループしてるのかもしれないし、俺達が同じ会話をしているのかもしれない」
「対処方法は……?」
一縷の希望をかけての問いかけに、先輩は唇を歪めた。
「ないな。慣れろ」
「うう、やっぱり。そんなことだと思ってました……」
がっくりと肩を落とした僕を哀れに思ったのか、先輩が「しいて言うなら」と続けた。
「会話を絶やさないようにすることだ。既視感を繰り返す余裕も無くなる」
「はい」
答え、僕は顔を上げる。前を行くパトカーは、山道特有のほとんど直角のカーブを曲がったところだった。
少し遅れて、僕らもカーブを曲がる。だが、そこに広がっていたのは茫漠とした暗闇だ。
「……あれ?」
パトカーは、影も形もなく消え失せていた。
鳳の話では、確かパトカーが消えた後は旧道の反対側に出ているはずである。けれど、前方には立ち入り禁止の柵もそれらしいロープも見えない。
道は相変わらずの山道だ。
パトカーだけが、忽然と消えていた。不審に思っていると。
「伏せろ!」
先輩に怒鳴られ、僕は咄嗟に前屈みになる。直後、スピードを落としていた車体が急加速した。ガクン、と身体が前のめりになったのと、背後から金属同士がぶつかり擦れあう異音がしたのは同時だった。
追突されたのだ。だが、一体何に。ここには僕ら以外いなかったはずだ。
そろそろと目を上げると、サイドミラーには白いヘッドライトと禍々しいまでに真っ赤な回転灯。
濡れた鏡の中では、先ほどまで前にいたパトカーが凶悪な光を放っていた。
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