第9-6話 幽霊パトカー・再⑥
前を走っていたパトカーに着いて行くと、使われていない旧道にいつの間にか入っていた。
一本道だが、気が付くと前を走っていた車はいなくなっている。
鳳の話した内容を、僕は手帳にざっと纏めてみた。
そこで、ふと気づく。
「そういえば先ほど『戻ってくる』と言われてましたが、これと何か関係があるんですか?」
僕の問いに、鳳が嬉しそうに――それはもう、心の底から嬉しそうに笑った。
「きっと、弟が会いに来てくれたんですよ。私にとっても、馴染の深い乗り物で」
本当にそうだろうか。
思いはしたが、僕は何も言わないことにした。本人がそう信じているのなら、否定することもない。どっちにしろ、ソレが何だったかのはまだわからないのだ。
「ねぇ、刑事さん。神隠しから戻ってくる事例は、昔からありますよね」
僕の微妙な感情を気にすることなく、鳳が軽く身を乗り出した。
片方だけの目はどこか遠くに焦点があっている。彼の目を正面から見た僕は、背筋に寒いものが走った。
目の奥に妖しい光をぎらつかせながら、鳳は早口に続ける。
「もし、もしですよ。必ず神隠しが戻ってくるという話を作ったとしましょう。沢山の人がそれを信じたとしましょう。実際どうだったかは、この際どうでも良いんです。人がどれだけ信じたか、それが重要なんですよ。あの場所でいなくなった者は、必ず帰ってくる。数え切れないほどの人が信じたら、それはもう噂じゃない。信仰ですよ。信仰には力がある。目に見えない力が。だったとしたら――」
鳳の額には、うっすらと汗が光っている。凍り付く僕の前で、鳳の目が大きく見開かれた。
「本当に戻ってくるかもしれない。そんな妄執に憑りつかれた人間がいても、不思議じゃあないですよね?」
さらに目が大きく開かれる。睫毛の数すら数えられそうなほど間近で見る彼の瞳は、鏡のようであった。彼の瞳の中には、青い顔をした僕がいる。背後に広がっているのは、鬱蒼とした木々の影だ。
ありえない。
異常な光景に叫びだしたいのに、身体が動かない。
冷房とは別種の澄んだ空気が肌を撫でた。夏の夜山の気配。噎せ返るような濃厚な緑の香りが、鼻孔を突き抜けていく。
埋められる、という言葉がなぜか脳裏に浮かんだ。
カシャン
不意に、山の中には不似合いな乾いた音が響き、僕は顔を上げた。
違う、ここは山じゃない。室内だ。
気が付いた途端、一気に力が抜けた。
耳の奥ではまだ、陶器どうしがぶつかった甲高い音の余韻が響いている。
「――戻ってきたとして」
空になったカップをソーサーに戻した先輩が無表情に告げた。
「それが本人という証拠はない」
「もちろん」
ぱっと鳳の顔が明るくなる。すでに、先ほどまでの狂的な光は消えていた。
「例えばの話ですよ。そういう人もいるかもしれない――ホラー小説のネタとしては面白いでしょう?」
否定も肯定もせず、先輩は壁にかかった時計を一瞥した。
時刻はすでに十九時近くなっている。
一体いつの間に――。
ここに来たのは、十七時前だったはずだ。背中に冷たい汗が流れる。心なしか、先輩の顔色も悪い。
「長居してしまったみたいですね。そろそろ失礼します」
「お気になさらず。何なら、晩飯も一緒にどうです?」
「遠慮しておきます。また何か思い出したら、ご連絡ください」
事務的に告げて立ち上がった先輩が、僕を見た。
「帰るぞ」
短い一言。だが、僕は言い知れぬ安堵を感じた。
「あ、はい」
いそいそと先輩の後をついていくと、鳳も後からついてきた。見送りのためだろうが、さっきのことを思い出すと落ち着けない。
玄関まで来た時、鳳が口を開いた。
「ヨモツへグイはご存じですよね」
扉に手をかけていた先輩が振り向く。
「死者の世界の食べ物を口にしてしまえば甦れない。異界のものは毒なんですよ」
鳳は先輩しか見ていなかった。先輩も同じだ。
数秒間ほど、睨み合うような沈黙が流れた。異様な雰囲気に息をのむ僕の前で、鳳がにこりと笑う。緊張感は消えたが、ざらりとした気持ちの悪さは拭いきれない。
「あの山に行かれるなら、お気をつけて。あそこも異界ですよ」
「それはどうも。お気遣い感謝します」
別れの挨拶としては後味の悪いものを残し、僕らは外に出た。夏の夜特有のじっとりとした熱気が絡みつく。振り返ると、鳳と目があった。笑っている。
扉が閉まるその瞬間まで、彼の笑顔が崩れることはなかった。
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