第9-5話 幽霊パトカー・再⑤
案内されたのは、リビングらしい広い部屋だった。家の敷地から考えると相当な広さのあるその部屋の一角に、ガラス張りのローテーブルとソファが置かれた簡易的な応接スペースが設けられている。
そこから、一人の男が立ち上がったのが見えた。
「やあやあ、こんにちは。すみませんね、出迎えもできなくて」
振り返ったのは、黒麻のシャツを着た四十絡みの紳士だった。両手を広げた大仰な挨拶は、人によっては不謹慎に感じるかもしれない。だが、彼のそれは嫌味に感じさせない自然さがあった。
「改めまして、刑事さん。鳳徹です」
白い歯を見せて屈託なく笑う彼に気圧され、僕は「はぁ、どうも」と曖昧な返事を返した。
撫で付けられた髪には一部の乱れもなく、通った鼻筋と日本人離れした彫りの深さのせいか、一種独特の雰囲気がある。
だが、一番目を引くのは目元だった。
「見苦しくてすみません。先日、ものもらいが出来てしまって」
僕の視線に気がついたのだろう。苦笑した鳳が、右目に着けられた白い眼帯に手を当てた。
「この季節は蒸れて痒くなるし、困っちゃいますね」
「それは……ご愁傷様です」
「いえいえ、お気遣いありがとうございます。ささ、立ったままも何ですからこちらにどうぞ」
社会人お決まりの名刺交換を済ませると、彼に促されて僕らもソファに腰を下ろした。
先程出迎えてくれたお婆さんが、タイミングをはかったように音もなく茶器を並べていく。純白の器で湯気を上げているのは紅茶のようだったが、波紋一つ立っていない。
「黒塚さんの淹れてくれるお茶は美味いんですよ。冷めないうちに飲んで下さい」
笑いながら手でカップを示す鳳を、先輩が一瞥した。
「猫舌なんですよ」
それは初耳だ。
というか、普通に熱いもの食ってなかったかこの人。
「おや、それは残念」
大して残念そうでない鳳が、自分の前のカップを手に取る。目を伏せ、優雅にカップに口づける彼をジッと見つめていた先輩が、口を開いた。
「幽霊パトカーのことについて、知っていることを教えて下さい」
唐突な本題の切り出しに、鳳が片方だけの目を開けた。
「――神隠しですよ」
「え?」
答えの意図がわからなくて、僕は思わず間抜けな声を上げてしまった。鳳の目が三日月型に細められる。
「知っていますか、刑事さん。あの山の神隠しは戻ってくるんですよ」
刑事じゃないんだけどな。そう思いはしたが、僕は黙っていることにした。話の腰を折るのはよろしくないし、何より彼の語る内容が重要なことに感じたからだ。
淡々と先輩が質問を重ねる。
「あの山というのは、対談にあった取材で訪れた山ですね?」
「はい」
鳳が口にしたのは、ここから車で二時間ほどの場所にある峠だった。
峠途中の神社や途中にあるトンネル内部で怪異が起こるということで、心霊スポットとして知られていたはずだ。殺人事件もあったというから、過去に鳳が取材で行っても不思議ではないだろう。
だが、僕は神隠しがあったなんて話は聞いたことはなかった。
隣に座る先輩を横目で伺うが、表情に変化はない。無表情な冷たい顔に、僕は慌てて意識を鳳の話に戻した。
「取材というのは嘘なんです。最初に行ったのは、もう数十年も前になりますね。弟が行きたいと言っていたから、気晴らしも兼ねて連れていった」
ゆったりと指を組んだ鳳が、その間からジッと僕たちを覗いた。
「でも、そこで弟はいなくなってしまったんです」
いつの間にか赤みを増していた西日が、鳳の半身を染め上げる。
「峠道の途中で、気持ち悪くなったというから少し車を停めたんです。先にあいつを外に出して、私が車の停車位置を整えるまでのほんの十数秒。目を離したのなんて、たったのそれっぽっちですよ。けれど、私が外に出た時にはもうどこにもいなかった」
「失礼。弟さんに精神的な疾患は?」
「なかったはずです。……いえ、正直に言うと自信はありません。当時のあいつは少し鬱気味といいますか。その、よく『死にたい』と言っていましたから」
言いにくそうに言葉を濁した鳳は、さらに続ける。
「小説家を目指してたんですよ。でも、うまくいかないと悩んでいた」
「なるほど。それなら、弟さんは自ら失踪した可能性もありますね。地元の警察には?」
「言いましたよ。そう大きなニュースにはならず、いつしか風化していきましたけどね」
十数年前といえば、恐らく鳳はまだデビューもしていなかっただろう。もしかしたら、勤めてすらいなかったかもしれない。
だとすれば、大きな騒ぎにならずに処理されたことも頷ける。
「私が最初に警察官になったのも、弟を探したかったからです。けれど、ご存じの通り所詮は公務員。自由になんてできるはずがない」
肩をすくめ、鳳は自嘲気味に笑った。
「だから、私は警察を辞めました。その後は、弟を探すために何度もあの山に足を運びましたよ。――そして、アレを見たんです」
核心に迫りそうな気配に、僕はソファの上で身を乗り出した。
アレ。すなわち、僕らが追っている幽霊パトカーのことだろう。
「ちょうど、これくらいの時間でしたかねぇ。見慣れていたから、すぐにわかりましたよ。でも、途中でおかしいと気がついた。だって、旧道に入っていきましたから」
鳳が話していた峠には、二十年近く前に廃道になった道がある。恐らく、彼が言う『旧道』とはそちらのことなのだろう。
「普段はコーンだったか柵だったかで封鎖されてるはずなんですけど、その時は何も無かったんですかね。私は特に不思議にも思わず、ぼーっと後をついていってました。一本道ですから、分岐に注意を払うなんてこともしていなかったんです」
それは僕も経験がある。
山道や高速道路のような単調な景色の一本道を走っていると、段々と感覚が麻痺してくるのだ。
「引き返そうにも、道は狭いからUターンなんて出来やしない。どうしようかと思っている間に、どんどん辺りは暗くなってくる。おかしいと思いながらも、その時の私には車を前に走らせるしか選択肢は無かった」
鳳は、そこで言葉を切るとカップを手に取った。一息に中身を飲み干すと、再びソーサーに戻す。
「気がついたら、私は旧道の反対側――そこに設置された柵に阻まれて、ブレーキを踏んでいました」
うっすらと、彼は笑う。
「もちろん、目の前を走っていた車は影も形も無くなっていました。不思議でしょう?」
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