第8-1話 後輩➀
『――五人の人間が四メートルの間隔を開けて並んでいます。一人目から五人目までの距離は何メートルか、正しい数字を選びなさい。一、二、三、四……』
窓のない白く、四角い部屋。そこで繰り返される音声と秒読み。
まるで催眠術にでもかかったように、一心不乱に解答用紙を埋める女性。
いや、『ように』ではなく、これは催眠術なのだろう。
女性の名前は
先日入ったばかりの、僕らの後輩である。
『――りんごが十個あります。半分を蜜柑に交換し、さらに残った半分を葡萄と交換しました。残ったりんごは何個でしょう。正しい数字を選びなさい。一、二、三、四……』
彼女がやっているのは、村田・アビントン式深層内部境界検査。
通称『霊感テスト』と呼ばれるものだ。
四百の設問からなるテストで、心理学者の村田諭吉と物理学者のライアン・アビントンを中心としたグループによって半世紀近く前に作成された。
記述問題はなく、五つの回答群から答えを選択するマークシート方式だ。
問題は単純な数式や図形問題などの、小学校中学年の算数レベルから始まり、徐々にその難易度を高くしていく。
『xのn乗+yのn乗=zのn乗となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない。この定理を証明するのに適切な方法を示したものはいずれか。正しい数字を選びなさい。一、二、三、四……』
『世界は五分前に出来たものでない。このことを証明するのに、必要だと思うものはいずれか。正しい数字を選びなさい。一、二、三、四……』
そのうち、与えられた六秒では答えが出せない難解なものへと設問は変わっていく。
こうなってくると、人間は勘で答える生き物だ。もはや内容なんて吟味しない。
ただひたすら、目の前の数字を塗りつぶすことに意識の大半が傾く。
百を超える頃になると問題はさらに難解に――否、もはや正常な精神状態の人間では意味を取れないものへと変貌を遂げる。
『ABZの森の中に熱帯魚、もしくは逆さまの海月はピンクで何羽咲かせることが可能か? 正しい数字を選びなさい。一、二、三、四……』
後はこうした問いが延々と続く。
カリカリという、鉛筆が紙を削る音だけが響く時が二時間は続いただろうか。
やがて、試験終了を告げるブザーの音が響く。室内に漂っていた緊張感がパチンと弾けた。
「ふわぁ~! お、終わったぁ…………!」
叫ぶなり、さっそく鉛筆を放りだした神坂は机にぐだりと突っ伏す。
「お疲れ様」
「疲れましたよぉおお~! もう、だんだん自分が何答えてるのか分からなくなってきますし! こんなんでホントに霊感が測れるんですかぁ?」
彼女の訴えはもっともだ。何しろ、僕もつい半年前には同じことを思っていたのだから。
「霊感、というと少し違うけどね。これは――」
「はいはい。『怪異に対する認知性、耐性、攻撃指向性その他を含むヒトの立ち位置を多角的に数値化する試験』でしょう?」
「よく覚えたね」
「だぁって、
両耳を引っ張って、神坂は頬を膨らませる。
生口さんは、彼女と組むことになる人だ。かつて鬼城さんと組んでいたベテランで、異動になった彼の後釜としてやって来た神坂が一緒になるのは自然な流れだった。
いや、訂正しよう。
僕は自然だと思ったが、内部では少し不自然だと思われている。
というのも、他の人は僕が生口さんと組むことになると予想していたからだ。
「あの人が半年以上も誰かと一緒なんて、今までなかったんじゃないかな」
人事報を聞いた生口さんも、首を捻っていた。
あの人――僕と組んでいる先輩の名誉のために言っておくと、別に彼の人格に問題があるわけではない。
主任曰く「タイミングの問題」だったらしい。
ともかく、先輩には決まった相棒がいなかった。
新しい人間がきたら半年くらい世話をして見送ることを繰り返してきたのだ。何となく「教育係」として定着していたところで、この人事である。
驚かれるのも無理はない。
そんなわけで、目の前の彼女は(もしかしたら部署発足以来初めての)先輩以外が教育係につく新人というわけだ。
では、なぜ僕が基礎研修である「霊感テスト」を受け持っているかというと、これまた主任の言葉を借りるなら「タイミングの問題」である。
理由その一。
生口さんの担当している件が、新人もしくは新人の殻が取れてない僕という足手纏いを連れていけるものではなかった。
理由その二。
入庁三年目という彼女と一番年が近いのが僕であり、初日から懐かれた。
理由その三。
「霊感テスト」の試験官は時間こそ拘束されるが、やることは単純である。
録音されたテスト音声を流すことと回答用紙を回収すること。それを解析機関に送付すること。
これなら、一人前以下の僕でも十分にこなせるだろうという判断だ。
「じゃ、終わろう」
言って、僕は回収した回答用紙の束を机上で軽く揃えた。
結果がわかるのは一月近く後だ。
長い髪を机に広げて突っ伏している神坂は「疲れましたぁ」と、なおも腕と足をぱたぱたと力なく蠢かしている。
「ちょっと休憩しようか」
部屋の空気を入れ替えるため、僕はドアを開けた。
夏特有のムッとする湿気と薄汚れた廊下は、一息で僕らを白い部屋から現実に引き戻してくる。
「あ、試験終わったの? お疲れ様ー」
右から、のんびりとした声が響いた。頭を回すと、四十がらみのがっしりとした男性が片手を上げながら廊下を歩いてくる。生口さんだ。
「お疲れ様です。たった今、終わったところです」
「そっかぁ、それは良かった。こっちも一応の目途が立ったところ。あ、これお土産ね。あげる」
「はぁ、ありがとうございます」
生口さんに渡されたのは、濃紺の紙に包まれた平たい箱だった。雪の結晶と北の大地、そして丸っこい文字で『白い恋人』の文字が印刷されている。
「え~、北海道まで行ってきたんですかぁ?」
僕がなかなか戻ってこないから気になったのだろう。いつの間にか後ろから覗き込んでいた神坂が、素っ頓狂な声を上げた。
苦笑した生口さんが頷く。
「何なら、沖縄にだって行くよ。覚悟しておいて」
通常、警察は事件が発覚した地方の管轄で捜査にあたる。警視庁だって、言ってしまえば東京の警察でしかなく、そこは地方の県警と変わらない。
神奈川で事件が起これば神奈川県警が、北海道で事件が起これば北海道警察が事件を担当する。
――だが、残念ながら怪異を扱う部署なんて全国探しても
よって、当然の流れとして僕らは全国に足を伸ばすことになるのだ。しかも場合によっては全国に事例が拡大していたりする。
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