第7話 幽霊を轢いた男

「だから、俺が轢いたのはあの女じゃないって言ってんだろが!!」


 ドアを開けた途端に響いたのは、半狂乱の男の叫びだった。

 部屋を震わせるほどの怒声に、ドアノブを握った先輩がぼそりと「うるせえ」と零す。まったくもって同感ではあるが、あまり相手を刺激するようなことは言わないでほしい。


 取調室の奥で、男をなだめていた警官二人が僕らの姿を見て顔を輝かせる。これ幸いとばかりに「後は担当の者に代わりますね!」と言うのが聞こえた。


 男の罪状は運転過失致死罪。

 交通課から特殊調査資料室ぼくらに話が回ってきたのは、男の奇妙な言動ゆえだった。

 彼は人を轢いたことは認めているが、轢いた相手は今回の被害者ではないと主張しているのだ。


 彼は、半月前に殺された妻を轢いたと――そう、言っている。


「さて、と」

 男の前のパイプ椅子に腰を下ろした先輩が、さっそく切り出した。

「あんた、幽霊が見えるの?」

 捻りも何もない質問に、部屋の隅で調書の作成をしていた僕は天を仰いだ。

 これ、そのまま書くのか?

 男は、先輩の質問にすごい勢いで食いついた。

「そう、そうなんだよ! いつもは寝る時とかに立ってるだけだし、何もしないし触れないのに、今回はいきなり手を振ってこっちに来やがったんだ…! 車の傍から離れないし、無視して発進したんだよ……そしたら」

 男はそこで口籠る。だが、先輩は容赦なく省略された部分を補完しにかかった。

「実体があって、衝撃がきたんだな。――じゃあ、何でその時点で止めなかったんだ?」


 男は被害者を轢いていた。


 正面から三回、バックで三回。

 繰り返しタイヤで轢き潰された被害者は、それはそれは酷い有様だったらしい。男が目を伏せる。

「こ、怖くて……」

「へぇ、心配とかじゃなくて?」

 男の顔が強張った。「しまった」とでも言いたそうな表情だったが、すぐにその顔は取り繕うような怒りに染まっていく。


 あ、マズいな。思った時には、男の手が先輩の胸倉を掴んでいた。

「し、死んだ人間が……こ、殺そうとしてくるんだぞ………! 怖いに決まってるじゃないか!」

 男の目は血走り、怒りか恐怖かわからないが、手はぶるぶると震えている。恐慌状態と言って良かったが、先輩は平然と続けた。

「手を振って近寄って来ただけなのに、自分は殺されるという確証があったわけか?」

 男の顔色が再び変わる。赤から青へ。

 黙って唇を震わせているが、今度は何も反論しなかった。いや、もしかしたら反論できなかったのかもしれない。

「黙秘権か? まぁ良い。じゃあ最後の質問」

 最後、と聞いて男の顔がわずかに緩んだ。


「この部屋には何人いる?」


 男が不可解そうに眉を寄せた。

「はぁ? 何人って――三人、だろう」

「指さしてもらえる?」

 ますます男の顔が奇妙に歪む。その目に微かに怯えの色が浮かんだ。

「俺と、あんたと、隅の兄ちゃん…………だけ、だろう?」

 そうであってくれと懇願するような男を、先輩はそれはそれは白けきった目で長々と見つめた。


 その視線に耐えきれなかったのか、気まずそうに男が手を離す。

「――こちらからの質問は以上です。ご協力ありがとうございました。後ほど、別の者が伺いますので」

 襟元を直した先輩が慇懃無礼に告げる。

 拍子抜けしたような顔をした男を残し、僕らは部屋を後にした。

「ああ、そうそう」

 扉を閉める直前、先輩が振り返る。

「日本の警察は優秀だ。あんたと被害者が浮気関係だったって、もうバレてるから。ヘタな嘘はつかない方が良い」

 男は何か言いかけていたが、返事を聞く前に扉は閉められた。

「お疲れ様です」

 部屋から出てきた僕らに気がついた警官が、軽く会釈する。先ほどいそいそと出ていったうちの一人だった。

「それで、その。どうでした?」

「残念ながら、僕らじゃなかったみたいです」

「どっちかというとあれは一課じゃないか? 立派な殺人だし、あの男に霊は視えてないぜ」

 平然と言ってのける先輩に、話を振った警官が薄気味悪そうな視線を向ける。

「あ、あはは。じゃ、失礼しますねー」

 愛想笑いで強引に話を打ち切り、僕は先輩の背中を押してそそくさとその場を離れた。

 十分に距離をとったことを確認し、僕は尋ねる。

「で、何人いたんですか?」

「俺らを含めて五人かな。もしかしたら、もっといたかもしれないけど。少なくとも、確実にプラス二人はいた」

 広げた左手をひらひらと振る先輩に僕は引きつった笑いを返す。

「一応聞きますけど、それってやっぱり被害者と奥さんの二人ですか?」

「被害者の方はあの男の後にいたな。奥さんの顔は知らんが、多分そうだろ。般若みたいな顔してお前の隣にずっといたぜ」

「げっ……」

 そういうことはもう少し早く言って欲しかった。

「もしかしたら本当に、奥さんが浮気相手への復讐であの男に幻覚を見せたのかもしれんが…。幽霊に日本国憲法は適用外だし、どのみちお手上げだ」

「やっぱり痴情のもつれ、ですかね?」

 恐る恐る尋ねた僕に、先輩が「どうだか」と鼻を鳴らした。

「俺は、あの男か浮気相手が奥さんを殺したんじゃないかと思ってるよ。それの復讐。じゃないと、位置関係がおかしい」

「位置関係、ですか?」

「そ。痴情のもつれなら――あの男がまだ愛されていたなら、なんで先に死んだ奥さんは近くにいないんだ?」

 あ、と思わず声を出して僕は立ち止まった。

 確かにそうだ。なぜ、彼女は二人から離れた僕の隣に立っていた?

「奥さんが死んでから二週間くらいだっけか? しかも犯人不明の殺し。なら、浮気相手との逢瀬なんて呑気なこと出来るはずないよな。にも関わらず、奥さんは二人の関係を知っていた。だからあの男も、あんなに怯えていた」

 淡々と先輩は続ける。

「どのみち、こうも周りで不審死が相次いだんだ。徹底的に調べられるだろうさ。その後の真実を暴くのは俺達じゃない」

「……その前に殺されたりしませんかね?」

 僕の質問に、先輩は「さぁ?」と興味薄そうに答えた。

「そういうことしそうな感じには見えなかったな。力も弱かったし」

「でも、何ででしょう。もっと恨んだりしてそうなのに」

 食い下がる僕に、先を行く先輩も足を止めた。

「お前さ、もしかして首突っ込もうとしてないか?」

「ちょっと気になるというのは否定しませんよ」

 正直に答えて歩みを再開させる僕は、すぐに先輩に追いついた。

 横に並ぶと、下から睨み上げてくる赤い目とかち合う。もっとも、怒っているわけではない。これはまだ、不機嫌なだけだろう。

 にっこり笑い返すと、先に目を逸らしたのは先輩の方だった。

 正面を向いて歩きながら、むっつりと言う。

「お前とは一度、業務方針についてちゃんと話し合った方が良さそうだな」

「望むところです。一度じゃなくても良いですよ。僕も聞いて欲しいことがあるので」

 言いたいことは理解しているが、あえて気づかないフリをして話にのる。返ってきたのは、大きな溜息だった。

「お前、わかって言ってるだろ?」

「はい」

 再度の溜息に、わざとらしい嘆きが追加される。

「可愛げがないというか、図太くなったというか……。配属された時の純真そうな輝きはどこにいったんだ」

「今でも純真なつもりですよ。一緒に組んでる人に影響されたんじゃないですか?」

「一緒にって――俺か」

「それ以外に誰がいます?」

 僕の返しに、先輩は「やっぱり可愛くねぇ」とぼやいた。

「逞しくなったと言ってください」

「ぬかせ、それ以上逞しくなってどうするつもりだ」

「認めてほしくて」

 軽口に真面目に答えたことが意外だったのだろう。先輩が再び歩みを止めた。

 数歩先を行って振り返ると、笑みを消した顔がそこにはあった。

 だが、すぐに苦笑じみた表情で首を振る。

「とにかく、今回のは止めとけ。あれは他人が首突っ込むと、凶暴化して余計に手がつけれなくなるタイプだ」

「本当に?」

「嘘言ってどうする。……首突っ込みたいなら、それくらいの分別はつけろ。あれは多分、見張ってるだけだ」




 結果として、あの男は奥さんを殺してはいなかった。

 奥さんを殺したのはやはり浮気相手で、男はそれにビビって別れ話を切り出したらしい。

 納得のできない浮気相手はあの日、男を待ち伏せしていたところを轢かれた――というのがコトの真相だ。

 しかし、男は最後まで「妻の姿を見た」という証言を取り下げることは無かった。

 それが嘘か本当か、今となっては分からない。


 刑が確定する前に、彼は拘置所で脳卒中で亡くなった。


 あの女性達はすでに、男の死期を知っていたのだろう。

 その死の瞬間を見逃さないために。彼が苦しんで死ぬところを見たいがために、背後に立っていたのかもしれない。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る