第6-11話 メリーさん⑪
ぴちゃん
いつの間にかもの思いに耽っていた僕の意識を呼び戻したのは、微かな水の音だった。
ハッと顔を上げる。
雨の音ではない。
その水音は、鏡の中から聞こえてきたのだ。
気がつくと、周囲から音が消えている。いつもはうるさい階上の足音も、隣人の話し声もしない。
それだけではない。今もまだ窓の外を濡らしている雨の音すら、聞こえなくなっていた。
僕は今、鏡鬼を始める直前の状態で人形を放置している。
すなわち、人形は僕で合わせ鏡は『彼女』が来るための道だ。
スマホが軽快な呼び出し音を奏でる。同時に、バイブレーター機能によってぶるぶると蠢きはじめた。
部屋の温度が一気に下がる。
急に動きを止めたエアコンが、何かを詰まらしたようにガガッと音をたてた。
パキリ、と壁から異音。コンクリが材料であっても家鳴りはする。
だが。
普段は気にならない、何てことない音の一つ一つが部屋の空気を塗り替えていくのが肌を通して伝わってきた。
暗い窓に叩きつけられる雨の量は
だというのに、それら外界の音はまったく聞こえてこないのだ。
その奇妙さは、まるで窓をスクリーンにした無声映画でも見ているようだった。
今、音が聞こえるのは室内だけ。
この部屋という
荒くなりそうな息を必死に整える。
呼び出し音はまだ続いている。
電話の主はわからない。画面に文字は並んでいるのに、僕にはその文字が読めなかったのだ。
日本語で書いているのは間違いないはずなのに、その意味を脳が認識できない。あるいは、認識することを拒んでいるような奇妙な気持ち悪さが広がる。
ブツリ、と勝手に切り替わった画面表示が『通話中』という文字を浮かび上がらせた。
同時に、何の前兆もなく部屋の電灯が消える。
口から迸りそうになる叫びを何とか堪えられたのは、ひとえに何度も繰り返された忠告のおかげだった。
――良いか、何があっても。何を見ても、だ。声だけは絶対に出すんじゃないぞ
先輩の声が、鬼城さんの声が、ぐるぐると頭の中を回る。
今すぐ大声で叫んでこの匣から飛び出したい。
何もかもから目を逸らして、南国のリゾート地にでも逃亡したい。
現実逃避と、恐怖と、おぞましさ。逃げ出したいという欲求と、動けない体。乖離した精神と肉体の不一致に、吐き気がする。
深呼吸して息を整えようとしたが、すぐに空気の異常さに泣きそうになった。
腐った水の臭いが、部屋いっぱいに満ちていたのだ。
落ち着くどころか、気持ち悪さは更に加速した。最悪だ。
ぴちゃん
再び響いた水音に、僕は俯きかけていた顔を上げた。上げてしまった。
さっきより明らかに大きさを増した水音は鏡の中からしていて、そして液晶画面の明かりでうっすらと白く照らされた合わせ鏡の中では、一人の少女が暗い廊下に佇んでいた。
鏡の中の廊下で、少女が一歩足を踏み出す。
ぐっしょりと濡れた白いワンピースの裾から滴った水が、再び音を響かせる。
ぴちゃん
首を回して、現実の廊下を確認することは僕には出来なかった。
ただ、声を出さないように両手でしっかりと口を塞いで、彼女の一挙一動を見つめ続ける。
少女が足を踏み出す。
水音が響く。
ぴんと張り詰めた空気の中、水底でも歩いているような緩慢な歩みで少女は歩を進める。
ゆっくり、ゆっくりと。
ぎこちなく、それでいて正確な歩みは壊れかけた絡繰り人形のようだった。
鏡の中で、少女が部屋に侵入してくる。
水の臭いが、いよいよ酷くなった。
鏡の中の彼女が、間近に迫る。
現実世界にいるとしたら、僕の鼻先すれすれのあたりに佇む少女の影が、くっきりと鏡にはうつっている。
もはや臭いは、悪臭という度合いを超えて目に見えるほどの形に凝って、現実世界まで浸食してた。
覆いかぶさるようにして、白い影がぬぅっと伸びる。
いっぱいに伸ばされた手は鏡の中で、僕に見立てたぬいぐるみを掴んだ。
鏡という境界を軽々と超えた白い指が、現実世界に置かれていたぬいぐるみを絡めとったのは、次の瞬間だった。
水面のように、鏡の世界から飛び出した指だけが薄暗い部屋の中でスマホの明かりによって白々と照らされている。
その様は、悪魔が描いた騙し絵のようでもあった。
白い指はするすると鏡の中に引き込まれ
とぷん
と、静かな水音を一つだけ響かせて消えていった。
後に残されたのは、水没して使い物にならなくなったスマホと、割れてびっしょりと濡れた鏡。
そして、腐った水と泥が織りなす不快な臭いだけだった。
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