第6-9話 メリーさん⑨
そうして、その日の夜。
僕は部屋の中央で正座し、「彼女」からの電話を待っていた。
―――出来ることは全てやった、と思う。
外は相変わらずの雨だ。
規則的な音のためだろうか。緊張で胸は高鳴っているはずなのに、まるで武道の試合前のように心は凪いで静かだった。
向かい合わせにした一対の鏡と、その中央に置かれたぬいぐるみ。
ぬいぐるみは出来るだけ自分に近い形状をと選んだ結果、国民的人気を誇る某アニメに出てくるスーツ姿のキャラクターにした。顔は僕の数倍良いだろうが、三頭身にデフォルメされているのだから関係ないだろう。
ぬいぐるみの横には、日中ずっと静かだったスマホ。
合わせ鏡には開け放たれたワンルームの部屋の扉が写っており、短く暗い廊下の先にある玄関の扉が、ぬいぐるみを挟んで延々と続いている。
目の前に広げられた準備を前に、僕は今日一日であったことを思い返す。
昨日からのことを一通り話すと、先輩は腕を組んでしばらく考え込んでいた。
その末に出した結論は
「よし、逃げるか」
という、何とも気の抜けるものだった。
「逃げるって……。そりゃ、僕は助かりますけど」
「『被害者がいるのに野放しにするのか』とでも言いたそうだな、小僧」
言いたかったことを先回りされて言葉に詰まる僕を、先輩はせせら笑った。
「この部署に配属された初日に言ったはずだぜ。俺達の役割は怪異の解決じゃない。あくまで、その検証と蒐集だとな」
覚えている。
何かを諦めたような、乾いた瞳で彼は言ったのだ。
「俺達に特別な力は無い。無力で非力な一般人。だから、あいつらに喧嘩を売って勝とうなんて考えるな」
かつてと一言一句違わぬ言葉に、僕は拳を握りしめる。
現実は無情だ。
確かに僕はただの公務員で、非現実的な事象に対する力なんてこれっぽっちも持ってやしない。
「でも…。それじゃあ、僕らは一体何のためにいるんですか」
「憶測くらいなら話してやれるが、少なくとも解決じゃないことだけは確かだな。あれらは人に作られる。そして、人間の悪意なんて底なし沼だ」
「だからって、自分だけ逃げるなんて出来ませんよ」
「話は最後まで聞け。俺の考えが正しければ、多分お前で最後だ。無関係な人間が襲われるのはな」
怪訝な顔をする僕に構わず、先輩は逃走方法を纏めたらしい。
「そうだ、あれがあったな」と手を叩いた彼が告げたのは、僕が一日の大半を過ごしているだろう場所――すなわち、
*
「なるほど。それでお前、有給なのに俺のところに来たわけね」
「はい。よろしくお願いします、鬼城さん」
目の前で椅子を軋ませて振り向いた男性に、僕は頭を下げた。
鬼城さんは、僕より二つ年上の先輩だ。
憂いを帯びた切長の二重に、スッと通った鼻筋。長い足とスリムな体型は同じ日本人かと疑いたくなる。誰が見ても美男子の太鼓判を押されるだろう彼だが、問題があるとすれば――
「いやぁ、お前も今日休みって聞いたから下痢ゲロかと思ってたけど、違ったんだな。真夏にトイレ篭りっぱなしとか地獄だし良かったじゃん」
ケツも無事だし、と爽やかに笑う彼に僕は軽く瞼を押さえた。
もう少し、外見とのギャップを考えて欲しいと思うのは自分だけだろうか。
「良かないですよ。僕の話聞いてくれてました?」
「聞いてた聞いてた。あれだろ、お前と先輩で調査してた怪異が大アタリで、しかもお前さんが狙われてて、今夜にでも来るんじゃないかって話。災難だったな」
気楽そうに言って、鬼城さんは椅子の背もたれに腕をのせた。
「で? 俺をご指名の理由は何かな、お姫様」
「妙な言い方はやめて下さいよ。何か今日、テンション高くないですか?」
「そりゃあね。あの人に頼られるとか初めてだもん」
なるほど、理由はわかった。でも、一応こっちは命がかかってるんですけどね。
僕は鬼城さんの目を見て、先輩に言われたことを繰り返した。
「『ひとりかくれんぼ』に使う人形の作り方を教えて下さい」
鬼城さんは、ぽかんとした顔で僕を見上げた。
「『ひとりかくれんぼ』の人形って、そんなんググればすぐ……いや」
何か思い当たる節があったのだろう。彼は顎に手をやり、何ごとか考えていたが「あれか」と小さく呟いた。
パソコンに向き直った彼がアクセスしたのは、今までに提出された報告書が管理されているフォルダである。中はさらに年度ごとに纏められたフォルダがずらりと並んでおり、彼が選んだのは三年前のものだった。
冒頭の報告者欄には、鬼城さんの名前が書かれている。
「しっかし、こいつをもう一回実行することになるとはね。お前、厄介なもんに目をつけられたんだな」
「どういう意味です、それ」
「だって、あの人普通の『ひとりかくれんぼ』じゃなくて俺の方に聞けって言ってきたんだろ」
ニヤニヤした鬼城さんは『ひとりかくれんぼ(鏡鬼)』というファイルをクリックする。それは、『ひとりかくれんぼ』をアレンジしたらしい降霊術だった。
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