第6-8話 メリーさん⑧


 軽快な着信音で目が覚めた。

 感覚でまだ夜中だろうとわかる。どこか遠くで雷の音が小さく轟いていた。


 手探りで音の発信源を探し、寝ぼけ眼で手に取る。


『非通知』


 画面に記された文字が、一気に眠気を吹き飛ばした。

 同時に、今夜だけは携帯の音で目が覚めることは無いはずだということも思い出す。

 自分の心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえた。他に聞こえるのは、窓の向こうの遠雷と聞き慣れた――けれど、今、この場で聞くことはあり得ないメロディ。

 着信音はまだ響いている。

 出るべきか。

 通話ボタンに、親指が向かう。


 だが、その途端に着信音は切れる。


 そして。

 勝手に通話中に切り替わった画面の向こうから、部屋に新たな音が付け加えられた。


 昨日だけで何度も聞いた、サーというノイズの音。

 いや、違う。もっと太くて強い、濁音混じりの水音。

 よく耳にする音だ。思い出せ、思い出せ。

 ぴちゃん、という澄んだ音に空回りする思考が一つの答えを見つけた。


 これは、雨の音だ。


 土砂降りの雨が、を叩く音。


 ――ざばり


 新たに響いた音に、答えを見つけて気の抜けていた僕の頭は再びフリーズする。

 何だ、今のは。

 まるで、何かが水から這い上がったかみたいじゃないか。


 雨の音が、遠くなる。


 ずるり

 ぺたり


   ずるり

     ぺたり



 ずるり


 代わりに部屋に落ちたのは、ひどく緩慢な、重くて湿った足音。



 み……け…た

  

  い…か…ら……く……ね



 途切れ途切れの音が雨音に混じるノイズとなって僕の耳に届く。


 そこで、電話は切れた。

「ひ………」




 喉の奥がカラカラに乾いている。

 しばらく、僕は身動きが出来なかった。


 マズい。

 これはマズい。

 メリーさんは本物だ。


 今さらながら「狙われた」という先輩の言葉がぐるぐると頭を巡った。


 思考が纏まらないまま、考える。

 アレは―――メリーさんは、今どこにいる?


 カーテンを開き、窓ガラスに顔をひっつけるようにして外を見る。

 雲が多く月は見えないが雨が降っている気配はない。けれど雷の音だけは今もまだ響いている。


 次に、出来るだけ遠くから雨雲レーダーのアプリを起動させた。

 遠目でもはっきりとわかるほど、赤くなっているエリアがある。

 その方向は、聖堂学園がある地区だった。







 雷の音と共にあの足音がくる気がして、その夜はロクに眠れず、気が付くと朝になっていた。

 閉ざしていたカーテンを開けると小雨がベランダを濡らしている。

 迷いに迷った末、僕は部屋の床に置きっぱなしにしていたスマホに手を伸ばした。

 まず、主任に突然だが休みを取りたい旨を伝えた。

 怒られることを覚悟していたが、予想に反して有給届けはあっさりと受理された。

 その際彼がぼそりと「そうだと思った」と呟いたのが、少し引っかかりはしたが――とにかく、一日の自由を確保することには成功した。


 次に、昨日一番多く電話をかけてきた人にリダイヤルをする。

「昨日は突然帰ってすみませんでした」と告げ、今から会いに行っても良いかと尋ねる。

「むしろすぐ来い」と返されてしまい、こんな場合だというのに笑ってしまう自分がおかしかった。





 昨日と同じ病室に行くと、同じように入り口は開いていた。

 室内には先輩と、もう一人若い白衣の男が座っている。どうやら診察をしているようなので、邪魔にならないように入り口で待つことにした。

 だが、妙なのは彼が診ているのは目なのだ。しかも左目。


 確か、先輩は食中毒だったのではないだろうか。


 不思議に思って入り口で立ち尽くしていると、僕に気づいた男が「どうぞ」と言って立ち上がった。

 そのまま立ち去る彼とすれ違う時に会釈すると、意図せずネームプレートの名前が見えた。


「音無 樹」


 担当科は書かれていない。名前だけの素っ気ないものである。

 後ろで一つに結ばれた髪といい、妙に愛想のない表情といい、医者というよりは研究者と言った方がしっくりくる外見だ。


 その後ろ姿を何となく追っていると、不意に男が振り返った。その視線は僕を素通りし、左目を押さえる先輩に向かっている。

「では、お大事に。

 一言一言捻じ込むような圧がある言葉に、バツが悪そうに先輩が目を逸らした。

 ため息をつき、男がドアを閉める。

 室内には、僕と先輩だけが残される形になった。急に二人きりになると、これはこれで気まずい。

「……目、どうかしたんですか?」

「ついでの検査だ。そんなことより、とりあえず座れよ」


 誤魔化されたのは明白だが、僕は素直に先輩の前に置き去りにされていた椅子に腰かけた。

「昨日は、話も聞かずに逃げ出してすみませんでした」

 改めて頭を下げ「でも」と続ける。

「先輩に渡さなかったことについては、謝りませんよ」

 それが体調不良に繋がっていたとしたら、尚更。

 上目遣いに彼の表情を窺うと、「知ってるよ」と苦笑された。

「お前、そういうところ強情だよな」

「恐縮です」

「ま、過ぎたことは良い。それより、今日こそ何があったか話してもらおうか」


 にやりと笑った先輩の指の隙間から、紅い瞳が覗いた。


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