第6-7話 メリーさん⑦
そうだ、あれは気泡の音だ。
それに気が付いたのは、病院に向かう道すがらだった。
「ごぼり」という、妙に耳に残る重い粘性の音。
あれは間違いなく、水の中で空気の塊が押し出された音だ。
悪戯電話は、午後からの就業中にもかかってきていた。内容は昼のものと同じだったが、強いて違いをあげれば「ごぼり」という音が「ごぼごぼごぼ」という連続音になっていたことだろうか。
さすがに、気味が悪い。
気が付いた時に留守番電話のサービスは解除したが、続くようなら電話番号を変えた方が良いかもしれない。
そんなことを考えながら最寄り駅のロータリーを抜けたところで、再び着信があった。思わず肩が跳ねる。
画面表示を見やると、昨日登録したばかりの名前が目に入ってきた。
「お、奥村さん? どうしたんですか?」
泡をくって応答すると、聞き覚えのある柔らかい声が答えた。
「突然ごめんね。倒れたって聞いたから、心配になって」
「ああ、それは僕じゃなくて先輩の方です。命に別状はないし、昨日のこととは全くこれっぽっちも関係ないのでご心配なく」
「そ、そう……? なら良かった。じゃあ、君の方は何も問題ないんだね?」
厳密に言えば問題はあるのだが、それをこの人に言ったところで気に病むだけだろう。気の良さそうな奥村さんの顔を思い浮かべ、僕はあえて明るく答えた。
「はい、大丈夫ですよ。超元気です!」
「そ、そっか。なら良いんだ。じゃあ、気を付けてね」
あはは、という乾いた笑いを最後に、通話は切れた。
昨日会ったばかりの人間の心配をするなんて、やはり彼は人が良いのだろう。
それからは何事もなく、十分ほど歩き続けて病院に着くことができた。赤く染まった横断歩道を渡り、ガラス張りの正面入口から中に入る。
あらかじめ聞いていた病室に向かうと、既にドアは開いていた。名前を覚えられない先輩の、ネームプレートを見る必要がないことに少しだけホッとする。
彼の名前が自分の中から消える感覚だけは、何度経験しても慣れないのだ。
廊下から覗いた部屋は個室のようで、窓際のベッドで半身を起こしている先輩が見える。俯いているため表情は判然としないが、何か本でも読んでいるようだった。
一応ノックはすべきだろうと、拳を扉に当てた時だ。先輩が顔を上げた。
夕日に照らされ、いつも以上に赤い左目が僕を正面から捉える。
「お前、臭いぞ」
突然の指摘に、僕は右手を上げた不自然極まる体勢のまま固まってしまった。確かに汗はかきやすい体質だが、今日はほとんど室内で過ごしたから臭うほどではないはず……。
両袖を交互に嗅いで臭いを確認していると「ああ、悪い。違う、そういうことじゃない」と先輩が続けた。
「体臭じゃない。――腐った水の臭いがする」
顔から血の気が引くのが、自分でもわかった。
顎をしゃくって「ドア閉めろ」と先輩が言って、手にした本を置いた。タイトルも絵もなく、著者名すら書かれていない。色褪せた紅い表紙と、ページから発する古い紙の匂いがふわりと広がった。
「何があった?」
「それは」
口を開きかけ、僕は言葉を飲み込んだ。
思った以上に悪い先輩の顔色と、腕に刺さった点滴に目がいく。
「何だ?」
掠れた声が、再び問うた。
「……何も、ありません」
今のこの人には言ってはいけない。
何となくだが、そんな気がしたのだ。
不自然に口籠る僕に、先輩が目を眇めた。
その眼球に。現実離れした深く、鮮やかな赤色に吸い込まれそうになる。
――この人の目はこんなに紅かっただろうか。
白い病室を真っ赤に染め上げる夕日と、その中で炯々と光る紅い目に僕は息をするのも忘れていた。
まるで蛇に睨まれた蛙だ。
不意に、先輩の目がつ、と逸らされた。
「――そこか」
彼の視線の先を悟り、ぞわりと鳥肌が立つ。
腕に抱えていたスーツのポケット。そこには、先ほど放り込んだススマホがあるはずなのだ。
「寄越せ」
有無を言わさぬ口調に、僕は首をぶるぶると振った。
彼が怖かったのではない。
むしろこれを渡すことで、彼の身に降りかかるであろう何かをこそ僕は恐れていた。
「だ、駄目です」
「お前なぁ」
苛立たし気に先輩が頭を振った。ベッドに腕を突いたのを見て、悟る。実力行使に出る気だ。本気でこられたら、絶対に勝てない。
一歩下がる。背が扉に当たった。
最後通告だろうか。先輩が口を開く。
開こうと、した。
突然目を見開いた彼が、口元を押さえる。目元と喉元が不自然に引き攣っていた。
咄嗟に駆け寄ろうとして、すんでのところで踏みとどまる。
――僕にもハッキリとわかるほどに、腐り、澱んだ水の匂いが瞬間的に部屋を満たしていた。
「……っ」
咄嗟にナースコールを押した僕を、先輩が鬼のような形相で睨めつけてきた。
先程の強烈な臭いは、すでに嘘のように消え失せている。
嫌なものを隠すように、僕はジャケットを丸めて腕に抱いた。皺になるだろうが、どうせ安物だ。構うものか。
「い、悪戯電話は確かにありましたけどそれだけです。水の臭いは鬼城さんの班が下水の調査してたから匂いが移ったんですよきっと。だから心配しないでくださいそれじゃあ」
一気にまくし立て、僕はドアを開いて廊下に飛び出した。
やってきた看護士とぶつかりそうになるのを回避し、一目散に逃げだす。後ろで先輩が何か叫んでいたが、すぐに聞こえなくなった。
帰り道でも、家に着いてからも。何度か先輩からの着信があったが無視した。
消灯時間になって諦めたのか、夜中には止んでいたが。
――さすがに少し意固地になりすぎただろうか
時間が経って己の行動を振り返ると、かなり失礼なことをしたという自覚が湧いてくる。あの臭いだって、よくよく考えたら本当にしたのか今となっては自信がない。
彼が何をしようとしたのかはわからないが、話も聞かずに逃げ出したのは非常によろしくないと思う。
「……明日、ちゃんと謝ろう」
がっくりと肩を落とし、自分に言い聞かせるように僕は独りごちた。
さすがに怒られるだろうが、今のままだと次に顔を合わせた時に気まずい。
「そもそも、あの電話が悪いんだよな」
全ての元凶となった悪戯電話。偶然かもしれないが、あまりにもタイミングが悪い。
ベッドサイドに放り出されたスマホに恨みがましい視線をやり、僕は再び重いため息をついた。
そろそろ寝ないと明日に障る。わかっているのにまだ起きているのも、あの電話が気になっているからだ。
夜中に同じことが起こらない保証は、全くない。
「……今日だけ」
誰にするでもない言い訳じみた言葉を零し、ロックを解除する。留守番電話のサービスが解除されているのを確認し、次に画面を下から上に大きくスワイプさせた。
音量設定や明るさ設定と共に並ぶ三日月型のアイコン――お休みモードと呼ばれる、電話やメールの通知を切る設定に、迷った末指をのせる。
警察官である以上、いつ緊急の連絡が入るかわからない。
それは理解しているし、入庁してから今までこの機能を使ったことはなかった。
だが、今日一日だけ。
今夜だけは、あの悪戯電話を夜中に聞きたくはなかった。
幸い、今の部署で緊急の連絡が入るような状況はない。
だから、今夜だけ。
『ロック中は着信と通知は知らされません』
その表示をしっかりと確認する。
今夜は電話は鳴らない。
その、はずだった。
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