第23話
帰り道、もうすぐ契約が終わる私のマンションに、残り少なくなった荷物を取りに行った。
太郎ちゃんにはエントランスで待ってもらい、一人で部屋に向かう。
見慣れていたはずの風景が今では少し新鮮に思えた。
自分の部屋がある二階へ着いた時、これから入ろうとしている扉の前で誰かが壁に寄りかかっているのが見えて──思わず身震いする。
その誰かなんて、もうシルエットだけでも分かっちゃうんだよ。
「及川、さん……」
「沙紀……」
毎日、職場で見ているはずなのに。
仕事上、会話だって毎日しているはずなのに。
なんだか懐かしく感じるのは、今の生活があまりにも充実しているからだろうか。
「なんで、ここにいるんですか……」
私は震える声で尋ねた。
「沙紀に、会いたくなった」
チラリと見えた、彼の片手に握られているのは……また、あのカフェの紙袋。
その中に何が入っているのか、想像すれば目頭が熱くなった。
……やめて、やめて。
ふわりと香った彼の匂いは以前まで使っていた洗剤と変わっていなくて、胸が締め付けられる。
「今日だけ──これで最後にしていい。だから、僕のそばにいてくれないか」
単純な私は、あなたが私を「必要としている」と錯覚してしまう。
「……っ」
やっぱり彼の前では上手く言葉が発せなくて喉が詰まる。
だけど──。
「沙紀ちゃん」
階段を駆け上がる靴音が聞こえて、息の切れた太郎ちゃんの声がすればひどく安堵する自分がいた。
彼は慎二さんの目の前に立ちはだかると私を彼の背中で隠すようにする。
「諦めが悪い人ですね」
「僕は、沙紀の素直な気持ちが知りたいんだ」
喧嘩腰の太郎ちゃんとあくまで冷静な慎二さん。
……いや、冷静な振りをしているだけなのかも。
「……ダメ、ですよ」
ポツリと呟いた言葉は俯いていたせいで地面へ落ちる。
静かな廊下で慎二さんにはっきりと届いたのかは分からない。
だけど太郎ちゃんにはしっかり聞こえていたようで、振り返って私を見る。
太郎ちゃんの服の腕部分を掴んでぎゅっと握れば、彼は反対の手で、私の拳を包み込む。
太郎ちゃんがまるで「大丈夫だよ」って言ってくれているみたいで──勇気を振り絞って顔を上げた。
「だって、及川さんは──愛をくれないじゃないですか」
滲む涙でもう慎二さんの姿はぼやけて見えない。
「沙紀ちゃん……」
太郎ちゃんが驚いたような顔で私を見下ろしているのは分かった。
「ごめんなさい……。そばにいられたら、それでいいって思ってたけど……でも、やっぱり一番が欲しくなっちゃったんです。欲張りで、ごめんなさい」
太郎ちゃんの包んでくれている手が温かい。
「あなたは、彼女さんと幸せな家庭を築かなきゃ。私には、それを壊すだけの資格も勇気も……持ち合わせていないから」
そして最後に絞り出した言葉は──震える喉と上手く吐き出せない息のせいで上擦ってしまった。
「──さよなら」
──大好きでした、なんて。
言わなかったのは、最後の小さな抵抗。
太郎ちゃんの服を掴んでいた私の手から力が抜ける。するりと落ちて、彼の温もりも離れてしまった。
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